⑤『慈愛と姫』―――サンドラ
全8話に及ぶ「分霊の書」シリーズの第5弾。書は『慈愛と姫』、著はサンドラ。
バッファル島ではセイレーンと同一視されていたマーメイド。彼女たちは人間をも美貌と美音で誘惑し、餌食にしてしまう正真正銘の怪物である。その一方で、人間に心を開くこともあるのである。
この物語は人間に心を開いたマーメイド・オパールと博愛に満ちた美男子・グロウとの悲劇の恋物語であるが、その終わり方についてはハッピーエンドであると広く言われている。多くの物語が常体である中、この物語は敬体によって書かれた。
今回はそんな物語の中から起承転結の「承」の部分を中略して抜粋。「転」から「結」へは悲劇からハッピーエンドへの見事な転換が描かれている。
マーメイドはその美貌と美音で人間を誘惑し、餌食にすらしてしまいます。バッファルではマーメイドをセイレーンと呼び、時に人に心を開くこともあったそうです。
バッファルのある地区に1人の美男子がいました。名をグロウと言い、彼の性格もまた博愛に満ちた美しいものでした。
ある日、グロウが貝を求めて浜を歩いていますと、遠くの方から美しい音色が聞こえてきました。
「何とも美しい音色だなぁ...。」
彼は思わず呟き、この音色に誘われてしまって、音のする方へと歩いていきました。
すると、腹部から下を魚のように、また上を美しい女性の姿のようにした半人半魚が黄金の竪琴を弾いているのが見えてきます。そこにいたのはあのマーメイドでした。そのマーメイドは彼の姿を見ますと、いつものように襲い掛かろうとしたのですが、その動きは途中で止まってしまいます。マーメイドには珍しい、人間への一目惚れだったのです。そして、グロウの方も彼女を好きになってしまったのでした。
「...。あ、あなたの名前は何とおっしゃるのですか?」
後から考えればマーメイドに名前などあるはずがなかったのだと思ったものですが、その時グロウは思わずそう問うていました。
「私の名前ですか...?すみません、私にはまだ名前がないのです。」
その問にマーメイドはそう答える他にありません。そこで、グロウは彼女に名前を与えてやりました。
「では、今日からあなたを『オパール』と呼ぶことにしましょう。あなたのお顔や尾の美しさはまるで虹色に輝くオパールのようで、そしてその奏でる美しい音色も不思議な魔力で人を惹き付けるオパールのようなのです。」
と。
マーメイドはこの名を気に入り、グロウとオパールは度々同じ浜で出会うようになりました。その都度、互いに想いは昂っていき、グロウは父が進めていた許嫁との婚姻を破棄し、マーメイドとの婚姻を成立させようとしました。しかし、開心しても彼女はあくまでも怪物の種であり許可が下りることはありませんでした。
しかし、グロウは諦めることもあらず、オパールとの婚姻のために改革を図るのです。
「そこまでしていただかなくても良いのですよ。私はあなた様と出会えたのみで幸せなのです。」
ある時、彼女もこう言いましたがグロウの意思は実に強く固まりその言葉もほとんど意味を成しませんでした。
* * * * *
(中略)
* * * * *
グロウが改革をせんとしてから約10年が経ちました。未だオパールとの逢瀬は続き、そしてある日、ついに改革は成功を収めたのです。数々の失敗の末の成功にグロウは思わず涙を浮かべます。
「私のためにここまでしていただいて...。本当にありがとうございます。」
「いいえ、礼には...及びません...。これは私があなたと婚姻を結びたいからやったことなのです。」
そんなグロウにオパールが礼を言いましと、彼はそう謙虚に答えました。
そして同日、グロウとオパールの婚儀が一月後、島の広場にて催されることが決まりました。
しかし、この明後日、グロウに不治の病の患いが確認されました。知らぬ間に病は重く進行しており、さらに三日程が経ちますとついに寝たきりとなってしまいました。オパールはその体と美しい竪琴で金銭を稼ぎ、それを以て医者を雇いました。その医者は実に手厚く、雇い代以上の仕事をいたしてくれましたが、やはり病を治すことは不可能でした。
「大変残念なのですが、この方はもう長くありません...。私にできるのは魔法学と薬学の知識を存分に発揮し、死期をできるだけ延ばすのみです。力になれず、本当にすみません。」
そして、ついに医者からそのことを告げられました。
「い、いいえ...。今度、彼との婚儀があるのです。彼は10年もの間、私との婚姻のために無理までしてくれまして...。どうか、せめてその日までは生かしていただきたいのです。婚儀はここで行うことにいたしました。」
これを聞いたオパールは大変悲しくなりましたが、それを堪えてこの医者にそう言いました。
「分かりました。延命に努め...いいえ、必ずその日までは生かしてみせましょう!」
「は...はい...!」
これに医者はあの日のグロウのように強く固い意思を見せ、オパールもとても嬉しくなりました。そして、「どうかお亡くなりにならないでくださいね」と彼に言葉を投げました。
しかし、強固な意思があっても、過ぎ行く時を止めることなどできません。グロウのあの意思は報われるのに10年程の月日を要しました。不治の病、その延命についてもこれに同じことだったのです。婚儀が明日に迫ったある日のこと、ついにグロウは病の前に倒れてしまいました。
「ほ、本当に申し訳ありません...!あと一日、たった一日延ばせればあなたの願いを叶えることができましたのに...。」
医者は彼の亡骸の横でそう何度も謝りましたが、オパールは憤怒に呑まれることなく、
「いいえ...。」
と反射的に言うのみでした。
「グロウさん、早すぎます...!早すぎますよ!折角、あそこまで...!いたしていただきましたのに!」
そして、しばらくするとオパールは泣き崩れます。そんな彼女へ医者が
「おの、オパール様...。グロウ様のご遺体なのですが、あちらの棚に向かおうとしているように見えませんか?体は動かないはずなのに...。」
と言いました。その言葉を聞くと彼女はその棚に何かあるのだと思い、急いでその中を探し始めました。
それから、しばらく探しますと呉服と呉服との間に一つの箱が挟まっているのを見つけました。この箱を開けますと、中にはオパールの指輪が収まっておりました。オパールは口元を押さえ、思わずグロウの方を振り返ります。すると、右手の薬指に同じ指輪が嵌めれているのが見えました。
「ほ、本当にあなたは...本当にあなたは意思の強いお方なのですね...。」
その瞬間、彼女は再び泣き崩れます。しかし、流れたのは先程の悲しみの涙ではなく喜びの涙であった。
そして、医者が去ったこの次の日、オパールはこの指輪を嵌めたまま、血がこれに飛び散らないよう気を配いまして自害いたしました。天国で待つグロウと再会することをただ願って生き絶えた彼女でしたが、再び目を覚ますとそこには地獄の惨状であった。
「ここは...。」
オパールが声を漏らすと、向こうから巨漢が現れ、
「見ての通り、地獄である。そなたはその美貌と美音を良いことに、人間を含め多くの生物を食い殺した。それなのに懺悔もなく、ただ己の幸せのみを願って自害までした。地獄に落ちるのは当然であろう。」
と言う。その巨漢の名を閻魔と言った。
閻魔はオパールを生死再三の刑に処し、その日から生きると死ぬの苦しい再三の日々が始まった。このことが天国のグロウに伝わると、
「オパールは地獄に落ちたか...。では、私が行かねば...!」
とそこを去ろうとする。
「おい、天国の者が無断で地獄に向かうのは大罪であるぞ!?場合によっては最高刑の永久酷苦を食らってしまうのだぞ!それでなくとも、彷徨不満以上の刑は確実だ!!!」
天国の者はそう止めたが、意思の強固な彼には届かない。あっという間に天国から消えて、地獄の門を開けていた。
そこには閻魔がいる。閻魔は現れたグロウを睨み付け、
「天界の者がなぜここにいる?天国の者が地獄の扉を開けることは大罪であることを知らんのか。」
と問います。
「いいえ、知っております!ですが、どうしてもこちらに落ちたオパール、私との婚姻を結んだあの人魚様に会わせていただきたいのです!!!そのためなら永久酷苦であろうと進んで引き受けましょう!」
「お前はかなりの覚悟を持ってここに来たようだな。良い。本来なら醜悪色事の刑に処すところだが、特例で軽罰を認めよう...。」
「ありがたきお言葉。」
「では、お前を生死再三の刑に処す!そのオパールとやらも同じ刑に処した。生死を繰り返しながらあの人魚を探すと良い。」
閻魔の問に彼は自身の意思と覚悟を示してやりますと、かれを認めて彼はオパールと同じ生死再三の刑に処されたのです。
そして、幾度か生死を繰り返したある時、同じく生死を繰り返すオパールと再会を果たすことができました。
「会いにきていただいたのですね...。」
「はい、あなたとの婚儀のためであれば、例え地獄の中であろうとお供いたしましょう。」
「本当に意思の強いお方...。」
二人は久方ぶりに言葉を交わすと、続いて指輪を交換します。それを見ているだけで二人の間には笑みが溢れ、やがて熱い口づけを交わすまでに至りました。
しばらくすると二人は鬼に見つかりますが、この死への、そして次の苦への恐怖はほとんどありません。なぜなら、横には自身の想い人が立っているのですから。鬼の金棒は刹那の内に二人の首を吹き飛ばし、体のみが屍となって地に並んだのでした。




