③『黄昏』―――トリル
全8話に及ぶ「分霊の書」シリーズの第3弾。書は『黄昏』、著はトリル。
文語の頃に記された全部で九十一段の「黄昏時」説話集であるが、しばしば説話を交えて無常観を訴える随筆のような段も見られる。
これはその昔、異国・日本から伝わった『徒然草』や『方丈記』などの同じ無常観を訴える文書にトリルが影響を受けたからだと考えられている。
今回はそんな無常観を訴えるいくつかの段から第二十三段「闇をただ恐るるべからず」を抜粋。トリルは自身が誤りだと思う黄昏時の説話を例示し、そこから無常観を訴える論理展開を構成する。また、その一環として人の生死にも少し触れる。
黄昏の時はまた、魔と逢う時とも言わるるなり。この魔は神明にもあらず、怪異にもあらず、また他の現にはなかるべきものでもなし。然らば魔は何たるかと言うなれば、夜の前の闇に染まりゆく時、あるいはその闇なり。故人この時を魔と称してかくをしけり。
それはおおかた、神代の物語に従いて言い伝えられたる故事がためにこそありけん。
その物語、あるいはかくのごとくあり。
昼は者の世、夜は物の世、それらが間は者と物の混沌たる世。昼ノ神は者を思いて光にて皆人を安らげ給いて、夜ノ神は物を思いて闇にて怪異があるを保ち給う。人の月を見て動かされるはこの怪異を避ける力がありたるためにて、人はそれを知れるなり。されば、日は沈みて月の出でるもいと低く、しかもここに怪異も潜むと知れれば、たとえ強き者も恐るることを忘れじ。言わんや、弱き者は、より恐れるべし。
あるいは、かくのごとくもあり。
黄昏は日の死に際なり。日が死ぬるこそ夜は闇を呈し、日に光を奪われしつる月は際立ち、また物は放浪す。この夜の間にて日は新しく現に落ちて、成り行く程に光は増して、常にあるべき月はこれにぞ隠れて、明けが訪れる。そも世は物に支配されたるものなりて、人は日の光に甘んじ、昼にはこのことを忘れたり。そして、その日が死にし間際に恐るるを思い出すなり。
されど、これらはおおかた誤りなり。
まず、常なるこころにて見れば、昼も夜も人の世にあることに変わりはなかるべし。闇を恐れ給うは同ずるも一興あるが、その闇を魔として総べて受け入れざり給うは同ずる甲斐もなし。また、人が月を見て動かされるは怪異を避けるがためにはあらず。その美に詩歌などを詠みつ、故郷などを思いつなどして楽しむものなり。
次に、黄昏を日の死に際と表し給うこそはいとをかしと思えど、後に月が常にあると過ちてはなお、かくを記し給いし者も心なかりけりと思わざるを得ず。まことには日と月は対にありて、日が下がれば月は上がりて、月が下がれば日が上がるを繰り返すが理なり。すなわち、日も月もいずれ移りて変わる無常の具現にあり。人の命もまた、かくのごとし。人もいずれ死ぬることを知れりこそ、心ある者はただ浄土を願いて、生を謳いて、然る時には恐れず然る。然らぬ者は夜の闇に逢わん物にではあらず、この移り行く理を恐るるなり。
所詮、闇を恐るるは万物流転の理に反することなり。然るにこれを知れる者はあまりにあらずようなり。皆人が闇をただ恐るるばかりになく、闇を少し迎うるなんべしを。




