19話 主君の足
戦死者の家を回り始めたのは、評定の翌日からだった。
バードの名簿を持って、一軒ずつ。サルナが「人に任せずに自分で行きなさい」と言った通り、アレスは自分の足で回った。一日に五軒。急がず、全部。
最初の家は、城下の東の外れにあった。
小さな家だった。土壁が少し傾いていて、屋根の端が割れている。門の前に、女が立っていた。三十を少し過ぎたくらいの女で、子どもが二人、女の足にしがみついていた。
アレスが歩いてくるのを見て、女は頭を下げた。深く、長く。
「ヨシの妻か」
「はい」
ヨシ。常備兵の一人。左翼でバードの下にいた。戦死した四十二人のうちの一人。
「ヨシは、よく戦った。最後まで持ち場を離れなかった」
女は顔を上げなかった。子どもが二人、アレスを見上げている。上の子は五つくらいで、父親がいないことが分かっているような顔をしていた。下の子は三つくらいで、何も分かっていない顔をしていた。
「禄は一年分を追加で出す。その後も、子どもが成人するまで、半禄を続ける」
女は頭を下げたまま、小さく言った。
「……ありがとうございます」
声が震えていた。泣いてはいなかった。泣く段階はもう過ぎているのかもしれない。
アレスは何か言おうとした。「すまなかった」と言おうとした。だが、言えなかった。すまなかったと言えば、この女は「いいえ」と答えるだろう。そのやり取りは、何も救わない。
代わりに、下の子の前にしゃがんだ。
「父さんは、強かったぞ」
子どもはきょとんとしていた。意味は分からなかったかもしれない。だが、目の前に大人がしゃがんで、自分の目を見て話しかけたことは、覚えるかもしれない。
立ち上がって、女に言った。
「困ったことがあれば、城に来い。門を叩けば会える」
「……はい」
次の家に向かった。
◇
二軒目は、老父が一人で住んでいた。
息子を亡くしていた。領内から集められた兵で、実戦は初めてだった。右翼でロッツの下にいた。騎兵の突入で死んだ。
老父は、アレスを見ても立ち上がらなかった。座ったまま、アレスの顔を見ていた。
「息子は……苦しまなかったですか」
アレスは分からなかった。騎兵の突入は一瞬だった。苦しんだかもしれない。苦しまなかったかもしれない。分からない。
「……一瞬だったと聞いている」
嘘かもしれなかった。だが、老父が聞きたい言葉は、それだった。
「そうですか」老父は目を閉じた。「それなら、いい」
アレスは禄のことを伝えた。老父は頷いた。金のことはどうでもいいという顔だった。息子が苦しまなかったかどうかだけが、この老人にとっての全てだった。
家を出た後、アレスは少し立ち止まった。
「一瞬だったと聞いている」。嘘だったかもしれない。だが、本当だったかもしれない。どちらか分からない。分からないまま、老父が聞きたい方を言った。
それは正しかったのか。嘘をつかない主君であるはずの自分が、この場だけは嘘をついたのか。
分からなかった。だが、もう一度同じことを聞かれたら、同じことを言うだろう。それが正しいかどうかではなく、それ以外に言えることがなかった。
◇
三軒目は、若い妻が一人で待っていた。
結婚して一年と聞いた。子どもはまだいなかった。夫は中央でゴウの下にいた。ゴウの二百が中央に入った時、最前列で槍を受けた。
妻は泣いていた。アレスが来る前から泣いていて、アレスが来てからも泣いていた。何を言っても、泣いていた。
アレスは禄のことを伝えた。妻は泣きながら頷いた。聞こえているのかどうか分からなかった。
「実家に帰るか」
「……いいえ。ここにいます。ここが、あの人との家ですから」
そう言って、また泣いた。
アレスはその家を出る時、振り返った。小さな家だった。庭に、植えたばかりの花があった。二人で植えたのだろう。一人で咲くのを見ることになった花だった。
四軒目。五軒目。それぞれの家に、それぞれの悲しみがあった。怒る者。何も言わない者。「殿が来てくれた」と言って頭を下げる者。
五軒目の家で、老婆が言った。
「殿様、うちの孫は役に立ちましたか」
アレスは一瞬、止まった。
役に立ったか。その問いに、どう答えるべきか。役に立った、と言えば、老婆は安心するだろう。だが、それは「役に立ったから死んでもいい」という意味になりはしないか。
「……役に立ったかどうかは、分からぬ。だが、最後まで逃げなかった。それだけは確かだ」
老婆は頷いた。
「逃げなかったなら、いい子です」
その声に、怒りはなかった。悲しみはあった。だが、怒りはなかった。アレスはそれが一番辛かった。怒られた方が、楽だったかもしれない。
◇
五軒を回り終えた時、日が傾いていた。
城下の通りを歩いていると、水争いの時に会った女とすれ違った。女は頭を下げた。隣に老婆がいた。
「殿様、お疲れ様です」
「ああ」
「あの水路、石を入れてみました。うまくいきました」
「そうか。よかった」
「ありがとうございました」
日常だった。戦があって、人が死んで、それでも水路の石は入れたし、畑は耕している。日常は止まらない。止まらないことが、救いでもあり、残酷でもあった。
城に戻る道で、タムが横にいた。
「殿、大丈夫ですか」
「何がだ」
「顔色が悪いです」
「そうか」
「明日も回るんですよね」
「回る」
「……殿が回らなくても、バードが行けば——」
「私が行く」
タムは黙った。それ以上は言わなかった。
◇
城に戻ると、厨房の前でヤスに会った。
「殿、飯は食いましたか」
「まだだ」
「食いなさい。顔色が悪い」
タムと同じことを言われた。アレスは少し笑った。
「ヤス、戦死した者の中に、厨房の知り合いはいたか」
ヤスは少し黙った。
「……一人います。水汲みを手伝ってくれた若い兵で。名前はシュウと言いました」
「シュウか」
「はい。飯をよく食う男でした。三杯は食いましたよ、毎回」ヤスは少し笑った。笑いながら、目が少し赤くなっていた。「飯をよく食う人間は信用できます。あの男は、信用できる男でした」
アレスは頷いた。
「シュウの家にも行く。名簿に入っているはずだ」
「……ありがとうございます」
◇
夜、エルドの部屋の前を通った。
灯りがあった。筆の音が聞こえた。止まって、また走る。止まって、また走る。書いている。
声をかけなかった。
ここ数日、エルドは紙を持って来ていなかった。それでいい。戦の後だ。体も心も疲れている。書けない日があっても、書ける日がまた来る。
だが今夜、筆の音が聞こえた。書いている。丸めている音はしなかった。書けているのだ。
アレスは廊下を通り過ぎた。
◇
三日後、エルドが紙を持ってきた。
南の防備の見直し案だった。谷の物見の配置、砦の修繕後の守備計画、隣国の内紛が収まった場合の対応。三枚にまとまっていた。
「見せろ」
受け取って読んだ。整理されていた。以前より読みやすくなっている。字の大きさが少し大きくなっていた。前は、自分だけが読む字の大きさだった。今は、誰かに見せることを前提にした字の大きさだった。
「エルド」
「……は、い」
「字が大きくなったな」
「……よみ、やすい……ほうが……いい、と……おもいまして」
「誰に読ませるつもりだ」
「……ガ、ルト、どのに」
アレスは少し驚いた。
「ガルトに直接渡すのか」
「……はい。ひ、ょうていで……わたし、が……せつめい、できない、ぶぶんは……ガ、ルト、どのに……よんで、もらった、ほうが……はやい、と……おもいます」
アレスは紙を返した。
「ガルトに持っていけ。自分で」
「……じ、ぶんで」
「そうだ。私を通さなくていい。そなたが書いたものを、そなたが渡せ」
エルドは少し間を置いた。
「……わ、かり……ました」
エルドが部屋を出ていった。ガルトの部屋に向かう足音が、廊下に聞こえた。いつもの、遅い足音だった。途中で一度止まる癖が、まだあった。
だが、止まった後、また歩き出した。
しばらくして、ガルトの部屋の方から声が聞こえた。ガルトの声だった。低く、短く。何を言っているかは聞こえなかったが、怒っている声ではなかった。
それからまた、エルドの足音が聞こえた。今度は少し速かった。アレスの部屋の前を通り過ぎて、自分の部屋に戻っていった。
足音が消えた後、アレスはしばらく座っていた。
エルドがガルトに直接渡した。ガルトが受け取った。アレスを通さず、二人の間で紙が渡った。
それだけのことだが、半年前には考えられなかったことだった。切れと言っていた男と、切られる側だった男が、紙一枚を介して繋がった。
主君が間に入らなくても回る関係。それが、この家に生まれ始めている。
◇
窓の外に、城下の屋根が見えた。
今日は五軒目の家に行く日だ。あと三十七軒残っている。全部回るのに、あと八日かかる。八日後には、全員の顔を見る。全員の家族に、禄を伝える。全員の名前を、自分の口で言う。
それが終わったら、次のことを考える。砦の修繕。兵の再編。領内の田畑。ヴァルノ亡き後の隣国。やることは、山のようにある。
戦は終わった。だが、主君の仕事は終わらない。
むしろ、これからが本当の仕事だった。戦で勝つのは一日で済む。だが、勝った後の日々は、何年も続く。死んだ者の家族を忘れないこと。生きている者の暮らしを守ること。壊れたものを直すこと。次の脅威に備えること。
それを一つずつ、自分の足でやる。
エルドが紙を書き、ガルトがそれを読み、バードが名簿を作り、ゴウが若い兵を育て、タムが走り、ヤスが飯を炊く。そして、アレスが歩く。
全員が、それぞれの場所で、自分の仕事をする。
それが、この家だ。
アレスは立ち上がった。
今日も城下を歩く。父が歩かなかった道を。父が聞かなかった声を聞きに。
それが、この家の主の仕事だった。




