20話 主君とは何か
四十二軒を回り終えた日の夕刻だった。
アレスは城に戻り、鎧を脱ぎ、衣を替えて、縁側に座った。中庭の木が、夕風に揺れていた。父が好きだった木だった。
八日かかった。一日五軒ずつ、四十二軒。最後の一軒は城下の西の外れで、老夫婦が二人で住んでいた。息子を亡くしていた。老夫婦は何も言わなかった。頭を下げて、禄を受け取って、何も言わなかった。門を出る時、老婆が背中に小さく言った。「殿様、ありがとうございました」。振り返ったら、二人とも頭を下げたままだった。
四十二の家。四十二の悲しみ。全部が違っていた。泣く者。怒る者。黙る者。笑う者もいた。笑って「あいつは馬鹿だから、きっとあの世でも誰かに槍を振っていますよ」と言った男がいた。笑いながら、目が赤かった。
全部、覚えている。忘れてはならない。
◇
ヤスが茶を持ってきた。
「殿、今日で全部ですか」
「全部だ」
「お疲れ様です」ヤスは茶を置いた。「飯は後で持ってきます。今日は少しいいものを出します」
「いいものとは」
「シュウが好きだった芋の煮物です。あいつの分も作りました。供えてやってください」
「……そうか。ありがとう」
ヤスは頭を下げて、厨房に戻っていった。
茶を飲んだ。温かかった。中庭の木が揺れている。葉が一枚、風に乗って落ちた。
◇
しばらくして、ガルトが来た。
珍しく、用事があるわけではないようだった。縁側の端に座って、黙って中庭を見ていた。
「何か用か」
「いいえ。ただ、殿が座っているのが見えたので」
「珍しいな。そなたが用もなく来るのは」
「たまには」
二人で黙って中庭を見ていた。木が揺れている。夕日が葉を透かして、縁側に模様を落としていた。
「ガルト」
「はい」
「エルドの紙は読んだか」
「読みました。南の防備の見直し案ですな。筋は通っています。いくつか修正を入れて、明日の評定に出します」
「修正を入れた」
「はい。物見の交代の間隔が長すぎる。二人体制では、交代が一日おきになる。疲労を考えると、三人にすべきです。それ以外は、そのまま使えます」
「エルドに伝えたか」
「伝えました。あの男は少し考えて、頷きました。それだけです」
「それだけか」
「はい。反論はありませんでした。修正が正しいと思ったのでしょう」
アレスは少し笑った。ガルトとエルドが、紙を介してやり取りしている。アレスを通さず。口で議論するのではなく、紙に書いて渡して、修正を入れて戻す。それが、二人にとっての会話になっている。
「ガルト」
「はい」
「そなたは、エルドを認めたのか」
ガルトは少し間を置いた。
「……認めた、という言い方は正確ではありません」
「では何だ」
「使い方が分かった、というのが近い」
「使い方」
「あの男は、口では動かない。紙で動く。紙を渡して、考えさせて、書いたものを受け取る。それを私が声にする。そういう使い方です」
「人を道具のように言うな」
「道具ではありません。ただ、適材適所と言いたいのです」ガルトは少し考えた。「あの男の目は、私より先を見ている。それは事実です。だが、あの男の口は、私より遅い。それも事実です。両方の事実を見て、どう使うかを考えるのが、私の仕事です」
「そなたらしい」
「現実主義者ですから」
ガルトは立ち上がった。
「殿。一つだけ」
「何だ」
「あの男を見つけたのは、殿です。私ではない。私は、見つけられたものを使っているだけです」
「見つけたのではない。見ぬふりをしなかっただけだ」
「……同じことです」
「違う」
「違いますか」
「違う。見つけるのは、探すということだ。私は探していない。そこにいたから、見ただけだ」
ガルトは少し黙った。
「……殿。それが、殿と先代の一番の違いかもしれません」
それだけ言って、ガルトは去っていった。
◇
夕日が傾いた頃、エルドが廊下の向こうから来た。
紙は持っていなかった。用事があるわけでもないようだった。ただ、縁側にアレスが座っているのが見えて、足を止めた。
「……す、みません……おじゃま、でしたか」
「邪魔ではない。座れ」
エルドは少し迷ってから、縁側の端に座った。アレスとの間に、少し距離を置いていた。
二人で中庭を見ていた。木が夕日を受けて、長い影を作っていた。
「エルド、肩の傷はどうだ」
「……い、たみは……なくなり、ました。あと、が……のこる、かも……しれません」
「戦の跡だ。残ればいい」
「……は、い」
しばらく黙っていた。
「……アレス、さま」
「何だ」
「……きょう……さいごの、おうち、に……いって、きたの、ですか」
「行ってきた」
「……つ、らかった……ですか」
アレスは少し考えた。
「辛かった」
「……そう……ですか」
「だが、行かなければもっと辛かった。行かずに忘れることの方が、行って辛いことよりも、ずっと悪い」
エルドは黙っていた。風が吹いた。木の葉が一枚、二人の間に落ちた。
「……わた、しも……いつか……そういう、こと、が……できる、ように……なりたい、です」
「どういうことだ」
「……つ、らいことを……つらい、と……しって、いても……やる、こと。に、げない、こと」
「そなたは、もうやっている」
「……わたし、が」
「戦場で、丘を降りただろう。声が出なくなって、自分で走った。逃げなかった。あれは、辛いことをやったということだ」
エルドは少し間を置いた。
「……あれ、は……にげ、なかった、のでは、なくて……にげ、かたが……わから、なかった、だけ……かも、しれません」
「同じことだ」
「……おなじ……ですか」
「逃げ方が分からなかったから前に出た。それは、逃げなかったということと同じだ」
エルドの口元が、少しだけ緩んだ。笑ったのか、笑おうとしたのかは分からなかった。
「……そう、いって……いただけると……すこし……らくに、なります」
「楽になるのはいいことだ」
エルドは立ち上がった。頭を下げて、廊下を戻っていった。いつもの遅い足音。途中で一度止まって、また歩き出す。
だが、止まる時間が、少し短くなっているような気がした。
◇
夕日が沈んだ。
中庭が暗くなった。灯りがいくつか、城の中に灯り始めた。
サルナが縁側に来た。足を引きずりながら、アレスの隣に座った。
「お母さん、足は大丈夫か」
「大丈夫じゃないけど、ここまでは来られる」
二人で暗くなった中庭を見ていた。
「全部回ったんだって?」
「回った」
「偉いね」
「偉くはない。当然のことだ」
「当然のことを当然にやれる人間を、偉いと言うんだよ」
アレスは黙った。
「お父さんは、やらなかったからね」
「父の話はいい」
「いいけど、言っておく」サルナは少し声を落とした。「あなたはお父さんより良い主君になっている。それは、お母さんが言うから間違いない」
「母親の贔屓だ」
「贔屓で何が悪い」
アレスは少し笑った。サルナも少し笑った。
しばらく黙っていた。虫が鳴いている。夏が近い。
「お母さん」
「うん」
「理想の主君とは、何だと思う」
サルナは少し考えた。
「分からないよ、そんなこと。私はただの母親だから」
「母親の意見を聞いている」
「……そうだね」サルナは夜の中庭を見ていた。「理想の主君かどうかは分からないけど、あなたが良い主君だと思うのは、人を見ているところだと思う」
「見ている」
「うん。見ているだけじゃなくて、見えたものを、そのままにしないところ。見えたら動く。動いて、声をかけて、待って、受け取る。それを繰り返している。それが、良い主君かどうかは分からないけど、良い人間だとは思う」
アレスは黙った。
「理想かどうかは、偉い人が決めればいいよ。私はただ、あなたが帰ってきてくれて、嬉しい。それだけ」
サルナは立ち上がった。足を引きずりながら、奥に戻っていった。
◇
一人になった。
中庭の木が、暗闇の中で風に揺れている。見えないが、音がする。葉が擦れる音。枝がしなる音。
理想の主君とは何か。
アレスは、その問いに答えを持っていなかった。
強い主君か。賢い主君か。優しい主君か。どれも違う気がした。強さも賢さも優しさも、必要なものだが、それだけでは足りない。
足りないものは何か。
見ること。
そこにいる者を、見ること。見ぬふりをしないこと。声が小さくても聞くこと。答えが遅くても待つこと。役に立たなくても捨てないこと。役に立った時に、それを理由にしないこと。
それが理想かどうかは分からない。サルナの言う通り、偉い人が決めればいい。
だが、アレスにできることは、それだった。
見ること。見えたものを、そのままにしないこと。
エルドを見た。ガルトを見た。トーマを見た。ゴウを見た。バードを見た。ヤスを見た。タムを見た。四十二人の家族を見た。水路の女を見た。井戸の老婆を見た。
全員を見た。全員が、そこにいた。
私が見つけたのではない。初めから、そこにいた。
アレスは立ち上がった。
明日も評定がある。明日もエルドの紙が来るかもしれない。来なくても待つ。ガルトが修正を入れるかもしれない。入れればいい。タムが走るかもしれない。走ればいい。ヤスが飯を炊く。ゴウが若い兵に声をかける。トーマが怖いまま前に立つ。
全員が、それぞれの場所で。
その真ん中に、自分がいる。
理想の主君とは何か。
答えは、まだ出ていない。出ないまま、明日も歩く。明後日も歩く。答えが出る日が来るかどうかも分からない。
だが、歩き続けることだけは、決めている。
見ぬふりをしない。
それだけを、決めている。
最終話まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
『理想の主君とは』、全20話、完結しました。
最後まで、答えを出しませんでした。アレス自身が「まだ出ていない」と言っています。これは逃げではなく、そういう話だったと思っています。答えが出た瞬間に、歩くのをやめてしまうから。
書き始めた時、自分の中にあったのは「役に立つかどうかだけで人を測る世界への違和感」でした。でも、書いていくうちに気づいたのは、違和感の正体は「測ること」そのものではなくて、「測った結果、見なくなること」の方だったということです。
エルドは最初から、そこにいました。紙に書いていました。考えていました。ただ、誰も見ていなかっただけです。アレスがやったことは、特別なことではないと思います。そこにいる人間を、見た。それだけです。
でも「それだけ」が、なかなかできない。
ガルトは最後まで謝りませんでした。あの人はあの人のまま終わりました。それでいいと思っています。現実には、分かり合えないまま一緒にやっていく関係の方が多い。ガルトがエルドの紙を受け取って修正を入れて戻す、あの関係が、自分の中では一番リアルでした。
エルドの足音は、止まる癖がまだあります。でも、少しだけ短くなりました。それが20話分の変化の全てです。劇的な変化は書きませんでした。人はそんなに簡単に変わらないし、変わらなくていい。少しだけ、止まる時間が短くなる。それで十分です。
この話を最後まで読んでくださった方がいるなら、あなたもアレスと同じことをしてくれたのだと思います。声の小さな話を、最後まで聞いてくれた。
ありがとうございました。
もしこの作品を気に入っていただけたら、評価をいただけると嬉しいです。星の一つが、次の話を書く力になります。




