18話 誰も笑わなかった
評定の間は、まだ煙草の匂いがした。
変わっていなかった。柱の節目に染みついた、先代の匂い。戦に出て帰ってきても、この匂いだけは動かない。アレスはその匂いを吸い込んで、上座に座った。
家臣たちが入ってきた。
顔ぶれは、出陣前と同じだった。ガルト。バード。ロッツは腕を吊っているが、出席していた。若い家臣たちの中に、空席が二つあった。戦死した者の席だった。誰も、その席に座らなかった。
末席にエルドが座った。いつもの場所だった。手元に紙を置いている。筆を持っている。いつもの姿勢だった。
だが、一つだけ違うことがあった。
エルドの横に、タムが座っていた。末席の隣に、もう一つ席が増えていた。誰が用意したのかは分からない。タムは何も言わず、ただ座っていた。
◇
アレスが口を開いた。
「戦後の処理について、いくつか決める」
家臣たちが姿勢を正した。
「まず、戦死者の家族への対応だ。四十二名の家族に、禄を一年分追加で支給する。それと、私が直接、全ての家を回る」
バードが頷いた。「名簿はできております。いつでも回れます」。
「明日から始める。一日に五軒ずつ。急がず、全部回る」
「御意」
「次に、負傷者の処遇。重傷で戦列に戻れない者は、城の管理職に移す。禄は減らさない」
ガルトが口を開いた。
「管理職の空きは十分ですか」
「足りなければ作る。戦で体を壊した者を放り出すつもりはない」
ガルトは頷いた。異論はなかった。
「次に、砦の今後だ。ロウからの報告では、砦は持ちこたえたが損傷が大きい。修繕が必要だ」
ロッツが片腕を吊ったまま言った。
「修繕の見積もりは出ております。兵舎の壁と、門の補強。費用は——」
話が進んだ。日常の話だった。戦の後の、当たり前の処理。だが、当たり前の処理を当たり前にできることが、勝ったということだった。負けていれば、この評定はなかった。
ガルトが兵の再編成について話した。戦死と負傷で常備兵の数が減っている。領内からの徴兵を維持するか、解散させるか。
「領内から集めた兵は、早めに帰した方がいい。畑が待っています」
「全員か」
「全員です。砦の守備はロウの常備兵だけで足ります。谷の物見も二人で十分です。領民を長く留めると、来年の収穫に響きます」
アレスは頷いた。ガルトは戦が終われば即座に日常の計算に戻る。それが、この男の強さだった。
バードが死者の弔いの段取りを報告した。城下に死者の名を掲示する場所を設けること。遺族への禄の支給手順。埋葬地の管理。
「それと、殿。ルッツのことですが」
アレスは止まった。
「ルッツ」
「斥候で消えたルッツです。帰ってきていません。おそらく——」
「死んだか」
「確認は取れていません。ですが、ヴァルノの陣が崩れた後も戻っていない以上、捕まったまま処刑されたか、脱走途中で死んだかの、どちらかかと」
アレスは黙った。ルッツ。荷運びから斥候に取り立てた男。「気をつけろ」「はい」。あの別れが、最後になった。
「ルッツも、戦死者の名簿に入れろ。家族への禄も同じだ」
「御意」
空席が目に入った。二つの空席。そこに座っていた者の顔を、アレスは思い出そうとした。名前は覚えている。顔も覚えている。だが、もうここには来ない。
◇
議題が一通り終わりかけた時だった。
アレスが最後の議題を出した。
「ヴァルノ亡き後の隣国の動向について。斥候の報告では、ヴァルノの後継を巡って隣国の内部で争いが起きている。当面の脅威は低い。だが、まとまれば再び南に来る可能性はある」
ガルトが言った。
「砦の修繕と合わせて、南の防備を見直すべきかと。谷の物見は常駐させた方がいい」
「同感だ。他に意見は」
家臣たちが顔を見合わせた。何人かが頷いた。特に異論はないようだった。
その時だった。
末席から、声がした。
「……あの」
場が静まった。
エルドが、顔を上げていた。
手元の紙から目を離して、正面を見ていた。声は小さかった。いつもの、聞き取りにくい声だった。だが、自分から口を開いていた。
アレスは何も言わなかった。待った。
家臣たちも、待った。
最初の評定と同じ場面だった。同じ間だった。同じ場所で、同じ男が、口を開こうとしている。
だが、空気が違った。
誰も笑わなかった。
若い家臣が口元に手を当てることもなかった。隣の者が肘で突くこともなかった。ガルトが目を伏せることもなかった。
全員が、待っていた。
「……みなみ、の……ぼうび、について……ひとつ……」
声が途切れた。喉が動いた。いつものことだ。言葉が出口を見つけられない。
だが、エルドは止まらなかった。紙を見た。書いてあることを確かめた。そして、もう一度口を開いた。
「……たに、の……ひがし、がわに……もう、ひとつ……ものみ、を……おく、べきかと……おもいます」
声は小さかった。途切れていた。一文を言い終えるのに、他の者の三倍の時間がかかった。
だが、言い終えた。
バードが最初に反応した。
「谷の東側ですか。現在の物見は谷の入口にいますが、出口の方にも置くということですか」
「……は、い。にゅう、ぐち、だけでは……てき、が……たに、を、ぬけた、あと、の……ごうりゅう、ちてん、が……みえ、ません」
合流地点。以前エルドが未完成の紙に書いていた、あの「もう一つの合流地点」だった。あの時は空白だった場所が、今、エルドの口から出ている。
「……ごうりゅう、ちてんに……ものみ、を、おけば……てき、が……たに、を……つかった、あと……どこに、むかう、か……わかります」
ガルトが紙を見た。エルドの手元の紙に、地図が描いてあるのが見えた。
「エルド、その紙を見せてもらえるか」
エルドは少し間を置いた。それから、紙をタムに渡した。タムが立ち上がって、ガルトの前に置いた。
ガルトは読んだ。しばらく読んだ。
「……筋が通っている。合流地点に物見を置けば、谷からの迂回部隊の動きが事前に分かる。今回はぎりぎりだったが、次があれば早めに対応できる」
ガルトは紙をアレスに渡した。
「採用でよいかと」
アレスは紙を受け取った。見覚えのある字だった。几帳面で、小さい。だが今日の紙には、以前にはなかったものがあった。合流地点が、描いてあった。あの夜、途中の紙で空白だった場所が、埋まっていた。
「いつ描いた」
「……ゆうべ」
昨夜だ。廊下で立ち上がった後に書いたのだ。壁から背中を離す音がした、あの後に。
「採用する。谷の出口に加えて、合流地点にも物見を置く。エルドの案だ」
アレスはそう言った。エルドの名で。いつもと同じように。
だが今日は、誰も「本当にエルドが考えたのか」とは言わなかった。
評定が終わった。
◇
家臣たちが立ち上がって出ていく中で、若い家臣の一人がエルドの横を通りかかった。足を止めた。
あの男だった。以前の評定で、エルドの谷の話を聞いて「本当なのか」と聞いた若い家臣。あの時は、信じていいか決めかねている顔だった。
「エルド殿」
エルドが顔を上げた。
「あの谷の物見がなかったら、俺たちは負けていました」
「……そう……ですか」
「ありがとうございます」
エルドは何も言えなかった。口が動いたが、声にならなかった。いつものことだった。だが、目は相手を見ていた。下を向いていなかった。
若い家臣は頭を下げて、出ていった。
エルドはしばらくその場に立っていた。
タムが横で待っていた。何も言わず。待っていた。
◇
廊下で、ガルトがアレスに並んだ。
「エルドが自分から発言しましたな」
「そうだ」
「声は相変わらず小さい。時間もかかる。だが、中身は悪くなかった」
「悪くなかった、か」
「はい。悪くなかった。それ以上は言いません」
アレスは少し笑った。ガルトは変わらない。認めるが、褒めない。だが「悪くなかった」は、ガルトの口から出る言葉としては、十分だった。
「ガルト」
「はい」
「評定で、誰も笑わなかった」
「当然です。戦場で見たものを忘れるほど、家中の者は馬鹿ではありません」
「そうか」
「ただし」ガルトは続けた。「笑わないことと、信じることは違います。あの者が評定で発言し続けて、その中身が毎回筋が通っていれば、やがて信じる者も出てくるでしょう。時間がかかります」
「時間はある」
「はい。今は、あります」
ガルトは頭を下げて、去っていった。
◇
アレスは評定の間に一人残った。
煙草の匂いがまだしていた。父の匂いだった。
この匂いの中で、半年前、エルドの名前を初めて呼んだ。末席の隅で縮こまっていた男に、「そなたはどう見る」と聞いた。声は出なかった。家臣たちが笑った。ガルトが目を伏せた。
今日、同じ場所で、エルドが自分から口を開いた。声は小さかった。途切れていた。時間がかかった。だが、言い終えた。そして、誰も笑わなかった。
それだけのことだった。
それだけのことが、半年かかった。
半年の間に、何が変わったのか。エルドが変わったのか。家臣たちが変わったのか。
エルドは変わった。紙でしか伝えられなかった男が、口を開くようになった。まだ途切れる。まだ小さい。だが、開くようになった。
家臣たちも変わった。笑っていた者が笑わなくなった。それは、エルドの戦場での活躍を見たからだ。見たものが変われば、態度が変わる。ガルトが言った通りだ。
だが、本当に変わったのは、そのどちらでもないかもしれない。
変わったのは、この場の空気だ。「声が小さい者は聞かなくていい」「答えが遅い者は待たなくていい」——そういう空気が、少しだけ薄くなった。消えたわけではない。明日また戻るかもしれない。だが今日は、薄くなっていた。
それを作ったのは、アレス一人ではなかった。ガルトが声を出し、タムが走り、バードが問い、ゴウが持ちこたえ、トーマが怖いまま動いた。全員が、それぞれの場所で、それぞれの役目を果たした。
その中で、エルドが紙を書き、声を出し、短刀を抜いた。
アレスは上座から立ち上がった。煙草の匂いを背中に残して、評定の間を出た。
父がこの匂いの中で、何を考えていたかは分からない。だが今日、この場所で起きたことを、父に見せたかったと思った。
見せたところで、父は何と言っただろうか。
分からない。聞けない。だが、聞かなくても、アレスには分かっていることが一つあった。
この家は、変わり始めている。




