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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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18話 誰も笑わなかった

評定の間は、まだ煙草の匂いがした。


 変わっていなかった。柱の節目に染みついた、先代の匂い。戦に出て帰ってきても、この匂いだけは動かない。アレスはその匂いを吸い込んで、上座に座った。


 家臣たちが入ってきた。


 顔ぶれは、出陣前と同じだった。ガルト。バード。ロッツは腕を吊っているが、出席していた。若い家臣たちの中に、空席が二つあった。戦死した者の席だった。誰も、その席に座らなかった。


 末席にエルドが座った。いつもの場所だった。手元に紙を置いている。筆を持っている。いつもの姿勢だった。


 だが、一つだけ違うことがあった。


 エルドの横に、タムが座っていた。末席の隣に、もう一つ席が増えていた。誰が用意したのかは分からない。タムは何も言わず、ただ座っていた。



 アレスが口を開いた。


「戦後の処理について、いくつか決める」


 家臣たちが姿勢を正した。


「まず、戦死者の家族への対応だ。四十二名の家族に、禄を一年分追加で支給する。それと、私が直接、全ての家を回る」


 バードが頷いた。「名簿はできております。いつでも回れます」。


「明日から始める。一日に五軒ずつ。急がず、全部回る」


「御意」


「次に、負傷者の処遇。重傷で戦列に戻れない者は、城の管理職に移す。禄は減らさない」


 ガルトが口を開いた。


「管理職の空きは十分ですか」


「足りなければ作る。戦で体を壊した者を放り出すつもりはない」


 ガルトは頷いた。異論はなかった。


「次に、砦の今後だ。ロウからの報告では、砦は持ちこたえたが損傷が大きい。修繕が必要だ」


 ロッツが片腕を吊ったまま言った。


「修繕の見積もりは出ております。兵舎の壁と、門の補強。費用は——」


 話が進んだ。日常の話だった。戦の後の、当たり前の処理。だが、当たり前の処理を当たり前にできることが、勝ったということだった。負けていれば、この評定はなかった。


 ガルトが兵の再編成について話した。戦死と負傷で常備兵の数が減っている。領内からの徴兵を維持するか、解散させるか。


「領内から集めた兵は、早めに帰した方がいい。畑が待っています」


「全員か」


「全員です。砦の守備はロウの常備兵だけで足ります。谷の物見も二人で十分です。領民を長く留めると、来年の収穫に響きます」


 アレスは頷いた。ガルトは戦が終われば即座に日常の計算に戻る。それが、この男の強さだった。


 バードが死者の弔いの段取りを報告した。城下に死者の名を掲示する場所を設けること。遺族への禄の支給手順。埋葬地の管理。


「それと、殿。ルッツのことですが」


 アレスは止まった。


「ルッツ」


「斥候で消えたルッツです。帰ってきていません。おそらく——」


「死んだか」


「確認は取れていません。ですが、ヴァルノの陣が崩れた後も戻っていない以上、捕まったまま処刑されたか、脱走途中で死んだかの、どちらかかと」


 アレスは黙った。ルッツ。荷運びから斥候に取り立てた男。「気をつけろ」「はい」。あの別れが、最後になった。


「ルッツも、戦死者の名簿に入れろ。家族への禄も同じだ」


「御意」


 空席が目に入った。二つの空席。そこに座っていた者の顔を、アレスは思い出そうとした。名前は覚えている。顔も覚えている。だが、もうここには来ない。



 議題が一通り終わりかけた時だった。


 アレスが最後の議題を出した。


「ヴァルノ亡き後の隣国の動向について。斥候の報告では、ヴァルノの後継を巡って隣国の内部で争いが起きている。当面の脅威は低い。だが、まとまれば再び南に来る可能性はある」


 ガルトが言った。


「砦の修繕と合わせて、南の防備を見直すべきかと。谷の物見は常駐させた方がいい」


「同感だ。他に意見は」


 家臣たちが顔を見合わせた。何人かが頷いた。特に異論はないようだった。


 その時だった。


 末席から、声がした。


「……あの」


 場が静まった。


 エルドが、顔を上げていた。


 手元の紙から目を離して、正面を見ていた。声は小さかった。いつもの、聞き取りにくい声だった。だが、自分から口を開いていた。


 アレスは何も言わなかった。待った。


 家臣たちも、待った。


 最初の評定と同じ場面だった。同じ間だった。同じ場所で、同じ男が、口を開こうとしている。


 だが、空気が違った。


 誰も笑わなかった。


 若い家臣が口元に手を当てることもなかった。隣の者が肘で突くこともなかった。ガルトが目を伏せることもなかった。


 全員が、待っていた。


「……みなみ、の……ぼうび、について……ひとつ……」


 声が途切れた。喉が動いた。いつものことだ。言葉が出口を見つけられない。


 だが、エルドは止まらなかった。紙を見た。書いてあることを確かめた。そして、もう一度口を開いた。


「……たに、の……ひがし、がわに……もう、ひとつ……ものみ、を……おく、べきかと……おもいます」


 声は小さかった。途切れていた。一文を言い終えるのに、他の者の三倍の時間がかかった。


 だが、言い終えた。


 バードが最初に反応した。


「谷の東側ですか。現在の物見は谷の入口にいますが、出口の方にも置くということですか」


「……は、い。にゅう、ぐち、だけでは……てき、が……たに、を、ぬけた、あと、の……ごうりゅう、ちてん、が……みえ、ません」


 合流地点。以前エルドが未完成の紙に書いていた、あの「もう一つの合流地点」だった。あの時は空白だった場所が、今、エルドの口から出ている。


「……ごうりゅう、ちてんに……ものみ、を、おけば……てき、が……たに、を……つかった、あと……どこに、むかう、か……わかります」


 ガルトが紙を見た。エルドの手元の紙に、地図が描いてあるのが見えた。


「エルド、その紙を見せてもらえるか」


 エルドは少し間を置いた。それから、紙をタムに渡した。タムが立ち上がって、ガルトの前に置いた。


 ガルトは読んだ。しばらく読んだ。


「……筋が通っている。合流地点に物見を置けば、谷からの迂回部隊の動きが事前に分かる。今回はぎりぎりだったが、次があれば早めに対応できる」


 ガルトは紙をアレスに渡した。


「採用でよいかと」


 アレスは紙を受け取った。見覚えのある字だった。几帳面で、小さい。だが今日の紙には、以前にはなかったものがあった。合流地点が、描いてあった。あの夜、途中の紙で空白だった場所が、埋まっていた。


「いつ描いた」


「……ゆうべ」


 昨夜だ。廊下で立ち上がった後に書いたのだ。壁から背中を離す音がした、あの後に。


「採用する。谷の出口に加えて、合流地点にも物見を置く。エルドの案だ」


 アレスはそう言った。エルドの名で。いつもと同じように。


 だが今日は、誰も「本当にエルドが考えたのか」とは言わなかった。


 評定が終わった。



 家臣たちが立ち上がって出ていく中で、若い家臣の一人がエルドの横を通りかかった。足を止めた。


 あの男だった。以前の評定で、エルドの谷の話を聞いて「本当なのか」と聞いた若い家臣。あの時は、信じていいか決めかねている顔だった。


「エルド殿」


 エルドが顔を上げた。


「あの谷の物見がなかったら、俺たちは負けていました」


「……そう……ですか」


「ありがとうございます」


 エルドは何も言えなかった。口が動いたが、声にならなかった。いつものことだった。だが、目は相手を見ていた。下を向いていなかった。


 若い家臣は頭を下げて、出ていった。


 エルドはしばらくその場に立っていた。


 タムが横で待っていた。何も言わず。待っていた。



 廊下で、ガルトがアレスに並んだ。


「エルドが自分から発言しましたな」


「そうだ」


「声は相変わらず小さい。時間もかかる。だが、中身は悪くなかった」


「悪くなかった、か」


「はい。悪くなかった。それ以上は言いません」


 アレスは少し笑った。ガルトは変わらない。認めるが、褒めない。だが「悪くなかった」は、ガルトの口から出る言葉としては、十分だった。


「ガルト」


「はい」


「評定で、誰も笑わなかった」


「当然です。戦場で見たものを忘れるほど、家中の者は馬鹿ではありません」


「そうか」


「ただし」ガルトは続けた。「笑わないことと、信じることは違います。あの者が評定で発言し続けて、その中身が毎回筋が通っていれば、やがて信じる者も出てくるでしょう。時間がかかります」


「時間はある」


「はい。今は、あります」


 ガルトは頭を下げて、去っていった。



 アレスは評定の間に一人残った。


 煙草の匂いがまだしていた。父の匂いだった。


 この匂いの中で、半年前、エルドの名前を初めて呼んだ。末席の隅で縮こまっていた男に、「そなたはどう見る」と聞いた。声は出なかった。家臣たちが笑った。ガルトが目を伏せた。


 今日、同じ場所で、エルドが自分から口を開いた。声は小さかった。途切れていた。時間がかかった。だが、言い終えた。そして、誰も笑わなかった。


 それだけのことだった。


 それだけのことが、半年かかった。


 半年の間に、何が変わったのか。エルドが変わったのか。家臣たちが変わったのか。


 エルドは変わった。紙でしか伝えられなかった男が、口を開くようになった。まだ途切れる。まだ小さい。だが、開くようになった。


 家臣たちも変わった。笑っていた者が笑わなくなった。それは、エルドの戦場での活躍を見たからだ。見たものが変われば、態度が変わる。ガルトが言った通りだ。


 だが、本当に変わったのは、そのどちらでもないかもしれない。


 変わったのは、この場の空気だ。「声が小さい者は聞かなくていい」「答えが遅い者は待たなくていい」——そういう空気が、少しだけ薄くなった。消えたわけではない。明日また戻るかもしれない。だが今日は、薄くなっていた。


 それを作ったのは、アレス一人ではなかった。ガルトが声を出し、タムが走り、バードが問い、ゴウが持ちこたえ、トーマが怖いまま動いた。全員が、それぞれの場所で、それぞれの役目を果たした。


 その中で、エルドが紙を書き、声を出し、短刀を抜いた。


 アレスは上座から立ち上がった。煙草の匂いを背中に残して、評定の間を出た。


 父がこの匂いの中で、何を考えていたかは分からない。だが今日、この場所で起きたことを、父に見せたかったと思った。


 見せたところで、父は何と言っただろうか。


 分からない。聞けない。だが、聞かなくても、アレスには分かっていることが一つあった。


 この家は、変わり始めている。

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