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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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17/20

17話 役に立ったからではない

城に帰ったのは、三日後だった。


 戦場の後始末に二日かかった。戦死者の埋葬。負傷者の搬送。敵の残兵の掃討。砦のロウに連絡を取り、谷の迂回部隊が退いたことを確認した。全てが終わってから、千八百——正確には、もう千八百ではなかった——が丘陵を離れた。


 帰りの行軍は、行きよりも静かだった。


 勝った軍の帰り道というのは、意外なほど静かなものだった。行きにはあった緊張がなく、代わりに疲労があった。足を引きずる者。腕を吊っている者。担架で運ばれる者。そういう列が、街道を北に向かって歩いていた。


 エルドは歩いていた。担架を勧めたが断った。「……あ、るけます」と小さく言って、自分の足で歩いた。肩の傷が痛むのか、時折顔をしかめていたが、止まらなかった。


 行きと違って、エルドは周囲の地形を見ていなかった。下を向いて歩いていた。筆と紙の布包みを背負ったまま、いつもの姿勢で、いつもの歩き方で、黙って歩いていた。


 戦場で見せた鋭い目は、もう消えていた。いつものエルドに戻っていた。


 タムがエルドの横を歩いていた。何も言わず、ただ横にいた。時々エルドの歩調を確認するように、ちらりと横を見る。それだけだった。


 ガルトは列の先頭にいた。背筋を伸ばして馬に乗っている。戦場では年相応に見えた背中が、帰り道では元に戻っていた。家中に見せる顔を、もう作っていた。


 ゴウは後方の兵をまとめていた。担架で運ばれる負傷者の横を歩き、片腕で荷物を持ち、若い兵に声をかけている。「もう少しだ、城が見えるぞ」。見えてはいなかったが、兵たちはその声で少し足が速くなった。


 城下の入口に着いた時、人が出ていた。


 領民たちが道の両側に並んでいた。出陣の日とは違った。あの日は、不安な顔が多かった。今日は、安堵の顔が多かった。泣いている者もいた。子どもが走ってきて、兵の足にしがみついた。その兵は笑って、子どもを抱き上げた。


 水争いの時に会った女が、道端にいた。隣の老婆と一緒に、頭を下げていた。女が顔を上げた時、目が合った。女は何も言わなかった。ただ、頭を下げた。


 アレスは馬の上から、その景色を見ていた。


 ここに、帰ってきた。


 サルナの言葉を思い出した。「帰ってきなさい」「帰る」「約束して」「約束する」。約束は果たした。だが、全員を連れて帰ることはできなかった。四十二人が、丘陵の土の下にいる。その四十二人の家族が、この道の両側のどこかにいるかもしれない。帰ってこない者を、待っているかもしれない。


 アレスは前を向いたまま、城門をくぐった。



 城に入った。


 門を抜けると、城の中の者たちが出迎えていた。ヤスが厨房から出てきて、「おかえりなさい、飯はすぐ出す」と言った。それだけだった。ヤスはそれ以上何も言わず、すぐに厨房に戻った。鍋の音が聞こえた。あの男は、いつも通りだった。戦があろうとなかろうと、飯を炊く。それがヤスの仕事だった。


 兵たちが城の中に散っていった。武具を下ろす者。座り込む者。家族が迎えに来ている者もいた。妻が泣きながら抱きついている兵がいた。子どもが走ってきて、父親の足にしがみついている。


 ゴウが詰所の前に立って、若い兵を一人ずつ中に入れていた。「武具を掛けろ。飯を食え。それから寝ろ」。片腕で、全員を捌いている。


 トーマが詰所に入っていくのが見えた。振り返って、アレスに頭を下げた。アレスは頷いた。トーマの隣は空いていた。もう空いたままだった。


 母の部屋に顔を出した。


 サルナは縫い物をしていた。アレスが入ると、針を止めた。今度は止めた。


「帰ったよ」


「おかえり」


 サルナの目が赤かった。泣いていたのだろう。泣いたことは聞かなかった。


「怪我は」


「ない。他の者はある」


「エルドは」


「肩に傷。深くはない」


「そう」


 サルナは針を取り直した。手が少し震えていた。


「ご飯を食べなさい。痩せたでしょう」


「少し」


「少しじゃないよ。顔を見れば分かる」


 アレスは少し笑った。母の前では、笑えた。


「お母さん」


「うん」


「帰ってこられなかった者もいる」


 サルナの手が止まった。


「……そう」


「四十二人」


「名前は」


「バードが書いている。明日、城下に伝える」


 サルナは少し黙った。針を持つ手が、また少し震えていた。


「その人たちの家族に、何か届ける手配をしなさい」


「するつもりだ」


「あなたが自分で行きなさい。人に任せずに」


「……分かった」


 サルナは針を取り直した。今度は震えていなかった。


「それと、エルドの傷も見てあげなさい。あの人、自分では言わないから」


「分かっている」


「分かっているなら早く行きなさい」


 追い出された。母はいつもこうだった。



 勝鬨は、城下のあちこちで続いていた。


 夜になると、篝火が焚かれ、酒が出た。兵たちは城下の家に散って、家族と飲んでいる。笑い声が城の中にまで聞こえてくる。


 アレスは城の上に立って、その音を聞いていた。


 城下が明るい。篝火の赤が、夜の底を焦がしている。兵たちの笑い声が波のように揺れている。勝ったのだ。千八百で四千五百を崩した。そのことを、今夜だけは誰もが喜んでいい。


 だが、その輪の中にエルドの姿はなかった。


 篝火のどこにも、エルドはいなかった。


 アレスは城の中を歩いた。エルドの部屋を見た。灯りがなかった。いなかった。厨房を見た。ヤスに聞いた。「飯は食いに来ましたよ。半分残してましたが。それから、どこかに行きました」。


 半分残した。いつもは残さない男だ。ヤスが「飯を残さない人間は信用できる」と言っていた男が、今夜は半分残した。疲れているのか。気持ちが沈んでいるのか。


 タムに聞いた。「城に入ってから姿を見ていません。部屋にもいませんでした」。


 アレスは少し考えた。騒ぎが苦手な男が、一人になれる場所に行った。城の中で、人が来ない場所。



 アレスは人気のない石段を上がった。


 城の北端にある細い廊下。その先に、月の光が落ちている場所がある。人はあまり来ない場所だった。


 そこに、エルドがいた。


 壁にもたれて、座っていた。夜の闇を見ていた。肩の傷に巻かれた布が、月の光の中で白く浮いている。


「ここにいたか」


 エルドはゆっくりと顔を上げた。戦場で浴びた泥と血は落としてあったが、頬がこけていた。疲れが顔に残っていた。


「……は、い」


「なぜ下に行かない。皆が祝っている」


「……わた、しは……さわ、ぎが……にが、てです」


「そうか」


 アレスはエルドの横に座った。


 しばらく黙っていた。城下の勝鬨が、遠くから聞こえてくる。ここは静かだった。月の光と、虫の声と、二人の呼吸だけがあった。


「エルド」


「……は、い」


「今日、そなたが家を救った」


 エルドは何か言おうとして、すぐには言葉にならなかった。いつものことだった。喉が動く。唇が震える。時間がかかる。


 アレスは待った。


 やがて、途切れ途切れに漏らした。


「……わた、しは……きょう……はじ、めて……つか、われ……ました」


 その一言は、どんな勝鬨よりも重く落ちた。


 使われた。初めて。四十代半ばの男が、生まれて初めて、自分の力が使われたと感じた。それまでの全ての年月——評定で黙り、廊下で俯き、紙に書いては仕舞い、誰にも見られずに過ごした年月——が、あの一言に詰まっていた。


 アレスは静かに首を振った。


「違う。今日、役に立ったから大切なのではない。そなたは、今日の前から捨ててよい者ではなかった」


 エルドがこちらを見た。


「声が小さくても、言葉が遅くても、答えが三日後に来ても、そなたが考えていないわけではないと、私は知っていた。皆が見ようとしなかっただけだ」


 長い沈黙があった。


 月が雲から出て、廊下に光が広がった。エルドの顔が照らされた。泥と血を落とした後の、白い顔。声の小さな軍略方の顔。


「……あなた、が……さき、に……みて、いた」


「違う。そなたは初めから、そこにいた。私が見つけたのではない。そなたを、見ぬふりをしなかっただけだ」


 エルドはしばらく黙っていた。


 月が動いて、廊下の影が少しずれた。遠くで勝鬨の声がまた上がった。誰かが歌い始めている。戦の後に歌う歌だった。


「……わた、しは……ず、っと……おもって、いました」


「何を」


「……い、つか……やく、に、たてば……い、ても、いい……と。やく、に、たたなければ……い、ては……いけ、ない……と」


「それは違う」


「……ち、がう……のですか」


「役に立つかどうかで、いてよいかどうかが決まるなら、役に立たなくなった瞬間に、いてはいけなくなる。そんなことは、あってはならない」


 エルドは黙った。


「そなたが今日見せたものは、確かにすごかった。だが、今日見せたから大切になったのではない。今日の前から、そなたは考えていた。書いていた。七枚丸めた夜もあった。途中の紙を持ってきた夜もあった。全部、同じだ。全部が、そなただ」


 エルドの唇が震えた。目の縁が光った。今度は月の光のせいではなかった。


「……あ、りがとう……ございます」


 声は小さかった。途切れていた。いつものエルドの声だった。だが、その声が、どんな勝鬨よりもアレスの胸に届いた。


 それから、小さく問うた。


「……これ、からも……いて、よい……のです、か」


 アレスは間を置かずに答えた。


「無論だ。これからは、いてよいかではない。そなたには、いてもらわねば困る」


 エルドの目が揺れた。唇が動いた。何か言おうとして、言葉にならなかった。目の縁が少しだけ光った。泣いているのか、月の光のせいか。聞かなかった。


 城下の勝鬨はまだ続いていた。


 だが、その夜、二人のあいだに落ちた静けさの方が、ずっと深く残るはずだった。



 アレスが廊下を戻ろうとした時、エルドが背中に声をかけた。


「……アレス、さま」


「何だ」


「……わた、しは……また……かみ、を……もって、いきます」


「ああ。待っている」


「……こんど、は……もう、すこし……はやく……もって、いける、かも……しれません」


 アレスは振り返った。


 エルドの顔が、少しだけ違っていた。いつもの小さな声。いつもの途切れる言葉。だが、目が違った。下を向いていなかった。前を見ていた。


「急がなくていい。そなたの速さで持ってこい」


「……は、い」


 アレスは廊下を歩いた。月の光が、足元を照らしていた。


 背中の向こうで、エルドが立ち上がる音がした。壁から背中を離す音だった。


 それだけで分かった。


 この男は、明日から、また書き始める。

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