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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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16話 勝鬨の夜

勝鬨は、丘陵地帯のあちこちで続いていた。


 篝火が焚かれた。昨夜と同じ火だが、色が違って見えた。昨夜の火は不安の色をしていた。今夜の火は、疲れと安堵の色をしていた。


 兵たちが輪を作って座っている。酒を回している者もいた。どこから持ってきたのか分からない。戦場に酒を持ち込む兵は、いつの時代にもいる。笑い声が聞こえた。泣いている者もいた。生きていることへの涙か、死んだ仲間への涙か。たぶん、両方だった。


 アレスは陣の中を歩いていた。


 鎧はまだ脱いでいなかった。血が乾いて、重くなっている。自分の血ではない。ヴァルノの血と、途中で払った兵の血と、エルドの肩口から散った血が混じっている。



 最初にバードを見つけた。


 左翼の陣で、負傷した兵の名を書き出していた。紙と筆を膝の上に置いて、一人ずつ名前を確認している。


「バード」


「殿。お疲れ様です」


「左翼の損害は」


「戦死四十二。重傷三十一。軽傷は数え切れません」バードは紙から目を上げなかった。「持ちこたえましたが、あと半刻遅ければ崩れていました」


「半刻」


「はい。敵将が討たれた報せが届いた時、左翼の最前列はあと三十人でした。三十人で、敵の五百を受けていた」


 アレスは黙った。


「バード。そなたの指揮がなければ、あの三十人は残っていなかった」


「殿がエルドを戦場に出していなければ、敵将は討てなかった」バードは静かに言った。「左翼が崩れなかったのは私の仕事です。だが、崩れる前に終わらせたのは、殿とエルドの仕事です」


 バードはまた紙に目を戻した。死んだ者の名前を、一人ずつ書いている。


 アレスはその場を離れた。四十二人の名前が、バードの紙に残る。その紙は、エルドの紙とは違う種類の重さを持っていた。


 少し歩いたところで、兵たちが地面に横たわった仲間の顔に布をかけているのが見えた。丘の斜面に、布をかけられた体が並んでいる。整列しているわけではない。運ばれてきた順に、置かれていた。


 アレスは足を止めた。


 一人の若い兵が、布の前に座り込んでいた。泣いてはいなかった。ただ座っていた。何も持たず、何も言わず、布の前に座っていた。


 アレスは声をかけなかった。かけるべき言葉がなかった。「よく戦った」も「すまなかった」も、今は嘘になる。


 しばらく立って、その若い兵の背中を見ていた。それから、歩き出した。



 ロッツの右翼を見た。ロッツ自身が腕に傷を負っていたが、兵の指揮を続けていた。


「殿、右翼は半壊しました。だが、東の窪みの伏兵がなければ全壊でした」


「エルドの伏兵か」


「はい。あの二十人が騎兵を一瞬止めてくれた。あれがなければ、俺は死んでいたかもしれません」


 ロッツは少し笑った。片腕を吊りながら、それでも笑えていた。



 ゴウの中央を見た。


 ゴウは篝火の前に座って、片腕で握り飯を食べていた。


「ゴウ。よく持ちこたえた」


「殿の言った通り、半日でした」ゴウは飯を噛みながら言った。「三日分持つと言いましたが、半日で十分でしたな」


「そなたの二百がいなければ、中央は崩れていた」


「崩れそうでしたよ。正直なところ」ゴウは少し真面目な顔になった。「ガルト殿が三百を連れて前に出た時は、穴が空くかと思いました。だが、殿が信じたんだから、俺も信じるしかない」


「信じてくれたのか」


「信じたというよりは」ゴウは握り飯を飲み込んだ。「殿が信じている者を、俺が信じないわけにはいかないでしょう。それが筋です」


 アレスは少し笑った。ゴウはいつもこうだ。筋で動く。理由は単純だが、単純だから折れない。



 ガルトを探した。


 ガルトは陣の外れにいた。一人で座って、鎧を脱いでいた。鎧の下の衣が血に染まっていた。自分の血もあるだろう。三百の先頭で戦ったのだ。


「ガルト」


「殿」


 ガルトは立ち上がろうとした。アレスが手で制した。


「座っていろ。疲れただろう」


「……はい。少し」


 少し、は嘘だった。ガルトの顔は、今まで見たことがないほど疲れていた。五十を過ぎた体で、三百の先頭に立って敵本陣に突入した。その代償は、顔に出ていた。


 アレスはガルトの横に座った。


 しばらく無言だった。篝火の音だけが聞こえていた。


「ガルト」


「はい」


「三百を連れて行ってくれたこと、礼を言う」


「礼は要りません。勝つために必要なことをしただけです」


「エルドの目は」


「……当たりました」ガルトは少し間を置いた。「あの旗の下に将がいた。エルドの見立て通りでした」


「そうだ」


 また沈黙があった。ガルトが鎧の留め具を外しながら、ぽつりと言った。


「……あの男、使えるではないか」


 アレスは答えなかった。


「なぜ今まで黙っておった」


 アレスはまだ答えなかった。


 ガルトの口調は、褒めているのではなかった。認めてもいなかった。正確に言えば、「使える道具が見つかった」という口調だった。エルドを人として認めたのではなく、役に立つ者の枠に入れただけ。


 それがガルトという人間の限界だった。そしてアレスは、その限界を責める気にはなれなかった。


「ガルト、一つ聞く」


「何ですか」


「エルドに、何か言うつもりはあるか」


「言うこと?」


「たとえば、今まで悪かった、とか」


 ガルトは少し考えた。


「……ありません。私はあの時も間違ってはいなかった。あの時の情報で判断すれば、切るべきだった。今日の結果で、判断が変わった。それだけのことです」


「謝らないのか」


「謝る理由がありません。判断が変わったことは認めます。だが、前の判断が間違っていたとは思いません」


 アレスは黙った。


 これがガルトだった。最初から変わらない。正しいと思ったことをする。情報が変われば判断を変える。だが過去の判断を否定しない。それが、この男の一貫性だった。


「……そうか」


「そうです」


 ガルトは鎧を脱ぎ終えた。衣の下で、肩が少し震えていた。寒さか、疲れか。


「殿」


「何だ」


「あの男を、これからも使ってください。紙の上だけではなく、戦場でも。今日見た限り、あの目は戦場でこそ生きる」


「そのつもりだ」


「ただし、声が出なくなる時がある。あれは治りません。だから、私がいる時は、私が声を出します。いない時のために、タムにも慣れさせておいてください」


 アレスは頷いた。ガルトは、エルドのために体制を組もうとしていた。切れと言っていた男が。声になると申し出た男が。今、エルドを使い続けるための仕組みを考えている。


 謝りはしない。認めもしない。だが、使う。使えるから使う。それがガルトの答えだった。


 アレスにとって、それは十分だった。


 ガルトが立ち上がった。鎧を抱えて、自分の幕へ向かった。背中が少し曲がっていた。三十年この家を支えてきた背中が、今夜は年相応に見えた。


 アレスはその背中を見ていた。


 切れと言った男。機会を作れと言った男。後方に置けと言った男。声になると申し出た男。三百の先頭に立った男。そして今、「使えるではないか」と言った男。


 全部、同じ男だった。ガルトは最初から最後まで、この家のために最善だと思うことをし続けていた。アレスと意見が合わない時も、合う時も、常にこの家を見ていた。


 敵ではなかった。一度も。



 エルドの元に行く途中で、トーマとすれ違った。


 トーマは生きていた。鎧に傷があったが、体は無事だった。槍を持ったまま、ぼんやりと篝火を見ていた。


「トーマ」


「あ……殿」


「怖かったか」


「……はい。怖かったです。ずっと怖かったです」


「よく生き残った」


「……はい。生き残りました」


 トーマの目が少し赤かった。泣いたのか、煙のせいか。


「殿」


「何だ」


「俺の隣にいた奴が、死にました」


 アレスは黙った。


「名前、覚えてますか。詰所で一緒にいた奴です。エルドのことを、戦場で紙は読めないだろうって言ってた奴」


「覚えている」


「あいつ、最後まで前にいました。逃げなかったです」


 アレスは頷いた。


「名前を忘れない」


「……はい」


 トーマはまた篝火に目を戻した。アレスはその横を通り過ぎた。



 エルドの元に行った。


 エルドは陣の外れで横になっていた。肩口の傷に布が巻かれている。誰かが手当てをしたらしい。タムがそばにいた。


「タム、手当てをしたのか」


「はい。深くはないですが、血がなかなか止まらなくて」


「ありがとう」


 タムは頭を掻いた。


「殿、エルドは寝ています。というか、力が抜けて動けないようです。戦の間ずっと立ちっぱなしで、最後は走ったので」


「そうか。寝かせておけ」


「はい。ただ——」タムは少し声を落とした。「殿、あの人、すごかったですね」


「すごかった」


「声が出た時、俺、本当に別人かと思いました。あの声、評定のエルドと同じ人間とは思えない」


「同じ人間だ」


「……はい。同じ人間です。でも、なんていうか……あの人の中に、あんなものが入っていたんだなと」


 タムの顔は、まだ驚きが残っていた。戦場で見たものを、まだ処理しきれていない顔だった。


「タム。そなたは今日、伝令としてよく働いた」


「俺は走っただけです」


「走ることが仕事だ。そなたが走らなければ、エルドの紙は誰にも届かなかった」


 タムは少し黙った。それから、小さく笑った。


「……殿がいつもやっていることですね。待って、受け取って、届ける」


「そうだ」



 エルドの横に座った。


 エルドは目を閉じていた。呼吸は穏やかだった。肩の傷の布が、少しだけ赤く滲んでいる。顔には泥と汗が乾いた跡があった。


 篝火の光が、エルドの顔に落ちていた。


 この男が今日、戦場を変えた。紙で兵を動かし、声で三百を導き、短刀で敵将に斬りかかった。四十代半ばの、声の小さな軍略方が。


 そして今、いつものエルドに戻っている。声は小さく、言葉は途切れ、目は閉じている。戦場で見せた鋭さは消えて、ただの疲れた男がそこに横たわっている。


 それでいい。


 本領を発揮できる瞬間がある。それ以外の時間は、紙に書く。書けない夜もある。それでもいい。


 全部含めて、エルドだ。


 アレスは立ち上がった。


 ふと、エルドの横に置いてある布包みに気づいた。筆と紙を包んだ布だ。戦場に背負って来た、あの布。開いてみた。中の紙は血で汚れていたが、筆は折れていなかった。


 一番上の紙に、何か書いてあった。戦の最中に書いたものだろう。紙が小さく、字が急いでいる。


「本陣はあれではない」


 あの六文字の紙だった。戦の最中にタムに渡した紙が、ここに戻ってきている。エルドが持ち続けていたのか。タムが戻したのか。分からなかった。


 アレスはその紙を畳んで、懐に入れた。城に帰ったら、棚に入れる。他の紙の上に。一番上に。


 勝鬨はまだ続いていた。兵たちの声が、夜の丘陵に響いている。


 だが、この夜一番静かな場所は、エルドが横になっている、この陣の外れだった。


 アレスはもう一度エルドの顔を見た。眠っている。穏やかな顔だった。声が出ない顔。言葉が途切れる顔。いつもの、誰にも見られていなかった顔。


 今日、この顔が戦場を変えた。


 アレスは踵を返した。まだやることがある。負傷者の確認。戦死者の名前。撤収の手配。勝った後の仕事は、勝つ前の仕事より多い。


 歩き出しながら、アレスは思った。


 今日、役に立ったから大切なのではない。


 その言葉はまだ言っていない。だが、言う時が来る。今夜ではない。もう少し後で。エルドが目を覚まして、また小さな声で話し始めた時に。


 その時に、言う。

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