表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/20

15話 三百が吠える

アレスは丘を駆け下りた。


 馬ではなかった。丘の斜面は急で、馬では降りられない。自分の足で走った。槍を片手に、鎧の重さを感じながら、土を蹴った。


 後ろからタムが叫んだ。


「殿! どこに行くんですか!」


「前に出る!」


「殿が出たら、全体を見る者がいなくなります!」


「エルドがいる! エルドの声を聞け! エルドが言ったことを、そなたが伝令に回せ!」


 タムは一瞬止まった。それから走り出した。アレスの方ではなく、エルドの方へ。


 丘の頂で、エルドが南を見ていた。声はまだ出ていた。


「三百、旗に到達。だが親衛が押し返している。左から包まれかけている」


 タムがエルドの横に立った。エルドの声を聞いて、伝令に叫んだ。


「左から包まれている! ガルトに伝えろ、左を警戒!」


 伝令が走った。


 エルドとタムの連携が、アレスがいなくても回り始めた。



 アレスは丘の中腹まで降りた。


 戦場の音が近い。上から見ていた時とは違う。叫び声。金属がぶつかる音。馬の嘶き。血の匂い。


 中央のゴウの陣を抜けた。ゴウが振り返った。


「殿! 前に出るのですか!」


「止めるな!」


「止めません! お気をつけて!」


 ゴウの声が背中に当たった。走り続けた。


 三百が突入した敵本陣の方向に向かっている。途中、敵の歩兵と二度すれ違った。崩れた右翼から漏れてきた兵だった。一人目は避けた。二人目は槍で払った。槍の柄が相手の肩に当たり、男が転がった。振り返らなかった。


 走りながら、丘の上からエルドの声が聞こえた。


「左翼、敵が退き始めている。本陣を突かれたことに気づいた」


 声はまだ出ていた。だが、間隔が空き始めていた。声と声の間に、沈黙が入る。声が出ている間は明瞭だった。だが、沈黙の長さが少しずつ伸びている。本領が続く時間が、終わりに近づいている。


 タムがエルドの声を拾って伝令に回している。丘の上で、エルドとタムの二人が全体を見ている。アレスがいなくても回っている。


 だが、次の瞬間、声が止まった。


 途切れたのではなかった。出なくなった。エルドの口が動いているのが見えたが、音が消えていた。全体が見える時間が、切れた。


 アレスは走った。間に合え。エルドの目がまだ動いているうちに、決着をつける。



 ガルトの三百は、敵の本陣に食い込んでいた。


 だが止まりかけていた。親衛の抵抗が激しかった。旗の周囲に集まった親衛五十が、三百の先頭を押し返している。三百の勢いが止まれば、外側から包まれる。時間がなかった。


 ガルトが前列にいた。槍を振るっている。五十代の体で、若い親衛兵と渡り合っている。三十年の経験が、体力の衰えを補っている。だが、長くは持たない。


 アレスが駆けつけた。


「ガルト!」


「殿! なぜここに!」


「旗を倒す! 道を作れ!」


 ガルトは一瞬だけアレスの顔を見た。何か言おうとして、やめた。代わりに振り返り、兵に叫んだ。


「殿が来た! 道を開けろ! 旗に向かって突っ込め!」


 三百が吠えた。主君が前に出たことで、止まりかけていた勢いが戻った。


 親衛が割れた。完全にではない。だが一瞬、隙間ができた。


 その瞬間。


 丘の上から、エルドの声が聞こえた。


「今! 右に空きがある! 旗の右! 将が見える!」


 声は明瞭だった。通っていた。丘の上から戦場の端まで届く声だった。本領はまだ続いていた。


 アレスは右に寄った。親衛の隙間を抜けた。旗の裏に出た。


 そこに、ヴァルノがいた。



 馬上の男だった。


 大きかった。鎧は黒く、兜は深い。顔は半分しか見えなかったが、目だけは見えた。老獪で、冷たく、だが驚いていた。ここに敵が来るとは思っていなかった目だった。


 ヴァルノは一瞬でアレスを見た。若い。鎧が汚れている。走ってきた。主君だ。それだけの判断が、一呼吸の間に終わったのだろう。ヴァルノは槍を構えた。


 速かった。


 馬上からの突きが、アレスの胸元に向かってきた。重い。長い。正面から受ければ貫かれる。


 アレスは横に跳んだ。槍が空を切った。だが、ヴァルノの槍は速い。すぐに引き戻して、二度目の突きが来る。


 三度目は避けきれない。そう思った時、横から一騎が割り込んだ。


 馬ではなかった。人だった。走ってきた人間だった。


 エルドだった。



 エルドが、丘を降りてきていた。


 いつ降りたのか。タムも気づかなかったかもしれない。声が途切れ始めた時、エルドは走り出していた。


 走る、というのは正確ではなかった。よろめきながら、丘を降りていた。足元がおぼつかない。鎧が重い。肩に背負った布——筆と紙を包んだ布——が揺れている。戦場に筆を持ってきた男が、今、筆を背負ったまま戦場を走っている。


 途中で転んだ。立ち上がった。また走った。


 エルドの目は前を見ていた。ヴァルノの位置を。アレスの位置を。ヴァルノの槍の動きを。三度目の突きが来ることを、見ていた。


 声が出なくなるなら、目を前に持っていくしかない。エルドは自分でその判断をした。誰にも言わず、誰の許可も取らず、自分の足で走った。


 エルドはヴァルノの前に出た。


 なぜそこに出たのか、エルドの中に理由があったかどうかは分からない。目が読んだのかもしれない。ヴァルノの三度目の突きがアレスに届く前に、誰かが間に入らなければ終わる、と。それを考えて動いたのか、体が先に動いたのか。


 ヴァルノの槍が薙いだ。エルドの肩口を裂いた。血が散った。鎧の薄い部分を、槍の穂先が深く掠めていった。痛みが走ったはずだが、エルドの顔は変わらなかった。


 だがエルドは落ちなかった。


 むしろ、斬られた勢いごと前に使った。体が前に倒れる。その倒れ方が、ヴァルノの馬の横に入り込む角度になった。


 偶然ではなかった。


 エルドは読んでいた。ヴァルノの槍は薙ぎ払いの後、必ず右に戻る。馬が右に体重を預ける癖がある。一撃で仕留めることしか頭にない将の、次の半拍。その半拍に、隙間がある。


 エルドの声が出た。


「そこだ!」


 大きかった。明瞭だった。戦場の騒音を突き抜ける声だった。本領が戻っていた。目の前に敵将がいて、全体が一本の線として見えていた。


 そして、声だけではなかった。


 エルドの手が動いた。腰の短刀——古びた柄の、長く使われていなかった短刀。それを抜いた。抜きざまに、ヴァルノの馬の脇腹に突き立てた。


 馬が嘶いた。体が崩れた。ヴァルノの体勢が大きく傾いた。槍を構え直す余裕がなくなった。


 エルドはそこで止まらなかった。


 馬が崩れた瞬間、ヴァルノの鎧の隙間——右脇の繋ぎ目——が開いた。エルドの目はそれを見ていた。短刀を引き抜き、その隙間に向かって突いた。


 短刀がヴァルノの脇腹に入った。浅い。だが入った。ヴァルノが初めて声を出した。声ではなかった。息が漏れただけだった。


 その瞬間に、アレスが来た。


 アレスは踏み込んだ。半歩。ヴァルノの槍が戻りきる前に。エルドが開いた隙間に。


 槍が、ヴァルノの脇腹から深く入った。エルドの短刀が開いた穴を、アレスの槍が貫いた。


 手応えがあった。鎧の隙間を抜いて、奥まで沈んだ。ヴァルノの体が大きく揺れた。


 ヴァルノの目が、アレスを見た。


 何も言わなかった。口は動かなかった。目だけが、何かを見ていた。若い主君の顔を。その横で血を流している、声の小さな男の顔を。


 目の光が、消えた。


 巨体が、馬から落ちた。地面が揺れた。



 一拍、戦場が凍った。


 敵の本陣の旗の下で、将が倒れた。それが見えた瞬間、周囲の動きが止まった。親衛が止まった。攻めていた兵が止まった。


 ガルトの声が上がった。


「敵将、討ち取ったぞ!」


 その声は、戦場の端まで届いた。ガルトの三十年の声だった。地を這うように低く、だが遠くまで通る声だった。ガルトがこの戦で最も大きな声を出したのは、この瞬間だった。


 声は丘を越え、左翼のバードに届き、中央のゴウに届き、右翼のロッツに届いた。千八百の全員が聞いた。


 一呼吸の沈黙があった。


 そして、四千五百が崩れた。


 将を失った軍は、糸の切れた繰り人形のように崩れた。前列が退き始め、後列が混乱し、旗が倒れ、隊列が溶けた。左翼に圧をかけていた兵が引き始めた。右翼の騎兵が馬を返した。中央の敵が後退を始めた。


 崩壊は、一度始まると止まらなかった。将がいない軍には、止まれという声がない。誰も止めない。誰も叫ばない。ただ、退く者の背を見て、次の者が退く。それが波のように広がっていった。


 バードの左翼が、初めて押し返した。削られ続けた兵たちが、初めて前に出た。バードの声が聞こえた。「追うな! 深追いするな! ここで止まれ!」。勝った側が崩れないための声だった。


 ロッツの右翼が、立て直した。


 ゴウの中央が、一歩前に出た。ゴウの片腕が、槍を高く掲げた。


 千八百が、四千五百を崩した。



 エルドは地面に座り込んでいた。


 肩口の傷から血が流れている。深くはなかった。だが、体の力が抜けていた。声は、もう出なかった。戻っていた。いつものエルドに。小さな声の、言葉が途切れる、あの男に。


 アレスがエルドの横に立った。


 エルドは顔を上げた。汗と泥と血にまみれた顔だった。目は、まだ南を見ていた。崩れていく敵を。


「……お、わり……ましたか」


「終わった」


「……か、った……のですか」


「勝った」


 エルドは少し黙った。


「……こ、え……でました、か」


「出た。全部聞こえた」


 エルドの口元が、わずかに緩んだ。笑ったのかもしれない。笑おうとしたのかもしれない。


「……よ、かった」


 それだけ言って、エルドは目を閉じた。気を失ったのではない。力が抜けただけだった。戦場の音が、ゆっくりと遠くなっていった。


 アレスはエルドの横に座った。


 勝鬨が上がり始めていた。ガルトの声。兵たちの声。千八百の声。


 だが、アレスの耳には、エルドの最後の声がまだ残っていた。


「そこだ!」


 あの一声が、全てを決めた。

第15話をここまで読んでくださった方、ありがとうございます。


エルドが丘を降りました。


声が出なくなったから、自分の足で走って、目を前に持っていった。転んで、立ち上がって、また走った。筆を背負ったまま。あれを書いている時、自分でも少し目が熱くなりました。


1話で紙を渡すことすらためらっていた男が、短刀を抜いて敵将に斬りかかるところまで来ました。でもあれは、急に強くなったわけではないと思っています。エルドはずっとあの力を持っていた。ただ、使える場所がなかっただけです。


「そこだ!」の一声が、20年分の沈黙の答えでした。


次回、勝鬨の夜。ガルトが何を言うか、楽しみにしていてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ