15話 三百が吠える
アレスは丘を駆け下りた。
馬ではなかった。丘の斜面は急で、馬では降りられない。自分の足で走った。槍を片手に、鎧の重さを感じながら、土を蹴った。
後ろからタムが叫んだ。
「殿! どこに行くんですか!」
「前に出る!」
「殿が出たら、全体を見る者がいなくなります!」
「エルドがいる! エルドの声を聞け! エルドが言ったことを、そなたが伝令に回せ!」
タムは一瞬止まった。それから走り出した。アレスの方ではなく、エルドの方へ。
丘の頂で、エルドが南を見ていた。声はまだ出ていた。
「三百、旗に到達。だが親衛が押し返している。左から包まれかけている」
タムがエルドの横に立った。エルドの声を聞いて、伝令に叫んだ。
「左から包まれている! ガルトに伝えろ、左を警戒!」
伝令が走った。
エルドとタムの連携が、アレスがいなくても回り始めた。
◇
アレスは丘の中腹まで降りた。
戦場の音が近い。上から見ていた時とは違う。叫び声。金属がぶつかる音。馬の嘶き。血の匂い。
中央のゴウの陣を抜けた。ゴウが振り返った。
「殿! 前に出るのですか!」
「止めるな!」
「止めません! お気をつけて!」
ゴウの声が背中に当たった。走り続けた。
三百が突入した敵本陣の方向に向かっている。途中、敵の歩兵と二度すれ違った。崩れた右翼から漏れてきた兵だった。一人目は避けた。二人目は槍で払った。槍の柄が相手の肩に当たり、男が転がった。振り返らなかった。
走りながら、丘の上からエルドの声が聞こえた。
「左翼、敵が退き始めている。本陣を突かれたことに気づいた」
声はまだ出ていた。だが、間隔が空き始めていた。声と声の間に、沈黙が入る。声が出ている間は明瞭だった。だが、沈黙の長さが少しずつ伸びている。本領が続く時間が、終わりに近づいている。
タムがエルドの声を拾って伝令に回している。丘の上で、エルドとタムの二人が全体を見ている。アレスがいなくても回っている。
だが、次の瞬間、声が止まった。
途切れたのではなかった。出なくなった。エルドの口が動いているのが見えたが、音が消えていた。全体が見える時間が、切れた。
アレスは走った。間に合え。エルドの目がまだ動いているうちに、決着をつける。
◇
ガルトの三百は、敵の本陣に食い込んでいた。
だが止まりかけていた。親衛の抵抗が激しかった。旗の周囲に集まった親衛五十が、三百の先頭を押し返している。三百の勢いが止まれば、外側から包まれる。時間がなかった。
ガルトが前列にいた。槍を振るっている。五十代の体で、若い親衛兵と渡り合っている。三十年の経験が、体力の衰えを補っている。だが、長くは持たない。
アレスが駆けつけた。
「ガルト!」
「殿! なぜここに!」
「旗を倒す! 道を作れ!」
ガルトは一瞬だけアレスの顔を見た。何か言おうとして、やめた。代わりに振り返り、兵に叫んだ。
「殿が来た! 道を開けろ! 旗に向かって突っ込め!」
三百が吠えた。主君が前に出たことで、止まりかけていた勢いが戻った。
親衛が割れた。完全にではない。だが一瞬、隙間ができた。
その瞬間。
丘の上から、エルドの声が聞こえた。
「今! 右に空きがある! 旗の右! 将が見える!」
声は明瞭だった。通っていた。丘の上から戦場の端まで届く声だった。本領はまだ続いていた。
アレスは右に寄った。親衛の隙間を抜けた。旗の裏に出た。
そこに、ヴァルノがいた。
◇
馬上の男だった。
大きかった。鎧は黒く、兜は深い。顔は半分しか見えなかったが、目だけは見えた。老獪で、冷たく、だが驚いていた。ここに敵が来るとは思っていなかった目だった。
ヴァルノは一瞬でアレスを見た。若い。鎧が汚れている。走ってきた。主君だ。それだけの判断が、一呼吸の間に終わったのだろう。ヴァルノは槍を構えた。
速かった。
馬上からの突きが、アレスの胸元に向かってきた。重い。長い。正面から受ければ貫かれる。
アレスは横に跳んだ。槍が空を切った。だが、ヴァルノの槍は速い。すぐに引き戻して、二度目の突きが来る。
三度目は避けきれない。そう思った時、横から一騎が割り込んだ。
馬ではなかった。人だった。走ってきた人間だった。
エルドだった。
◇
エルドが、丘を降りてきていた。
いつ降りたのか。タムも気づかなかったかもしれない。声が途切れ始めた時、エルドは走り出していた。
走る、というのは正確ではなかった。よろめきながら、丘を降りていた。足元がおぼつかない。鎧が重い。肩に背負った布——筆と紙を包んだ布——が揺れている。戦場に筆を持ってきた男が、今、筆を背負ったまま戦場を走っている。
途中で転んだ。立ち上がった。また走った。
エルドの目は前を見ていた。ヴァルノの位置を。アレスの位置を。ヴァルノの槍の動きを。三度目の突きが来ることを、見ていた。
声が出なくなるなら、目を前に持っていくしかない。エルドは自分でその判断をした。誰にも言わず、誰の許可も取らず、自分の足で走った。
エルドはヴァルノの前に出た。
なぜそこに出たのか、エルドの中に理由があったかどうかは分からない。目が読んだのかもしれない。ヴァルノの三度目の突きがアレスに届く前に、誰かが間に入らなければ終わる、と。それを考えて動いたのか、体が先に動いたのか。
ヴァルノの槍が薙いだ。エルドの肩口を裂いた。血が散った。鎧の薄い部分を、槍の穂先が深く掠めていった。痛みが走ったはずだが、エルドの顔は変わらなかった。
だがエルドは落ちなかった。
むしろ、斬られた勢いごと前に使った。体が前に倒れる。その倒れ方が、ヴァルノの馬の横に入り込む角度になった。
偶然ではなかった。
エルドは読んでいた。ヴァルノの槍は薙ぎ払いの後、必ず右に戻る。馬が右に体重を預ける癖がある。一撃で仕留めることしか頭にない将の、次の半拍。その半拍に、隙間がある。
エルドの声が出た。
「そこだ!」
大きかった。明瞭だった。戦場の騒音を突き抜ける声だった。本領が戻っていた。目の前に敵将がいて、全体が一本の線として見えていた。
そして、声だけではなかった。
エルドの手が動いた。腰の短刀——古びた柄の、長く使われていなかった短刀。それを抜いた。抜きざまに、ヴァルノの馬の脇腹に突き立てた。
馬が嘶いた。体が崩れた。ヴァルノの体勢が大きく傾いた。槍を構え直す余裕がなくなった。
エルドはそこで止まらなかった。
馬が崩れた瞬間、ヴァルノの鎧の隙間——右脇の繋ぎ目——が開いた。エルドの目はそれを見ていた。短刀を引き抜き、その隙間に向かって突いた。
短刀がヴァルノの脇腹に入った。浅い。だが入った。ヴァルノが初めて声を出した。声ではなかった。息が漏れただけだった。
その瞬間に、アレスが来た。
アレスは踏み込んだ。半歩。ヴァルノの槍が戻りきる前に。エルドが開いた隙間に。
槍が、ヴァルノの脇腹から深く入った。エルドの短刀が開いた穴を、アレスの槍が貫いた。
手応えがあった。鎧の隙間を抜いて、奥まで沈んだ。ヴァルノの体が大きく揺れた。
ヴァルノの目が、アレスを見た。
何も言わなかった。口は動かなかった。目だけが、何かを見ていた。若い主君の顔を。その横で血を流している、声の小さな男の顔を。
目の光が、消えた。
巨体が、馬から落ちた。地面が揺れた。
◇
一拍、戦場が凍った。
敵の本陣の旗の下で、将が倒れた。それが見えた瞬間、周囲の動きが止まった。親衛が止まった。攻めていた兵が止まった。
ガルトの声が上がった。
「敵将、討ち取ったぞ!」
その声は、戦場の端まで届いた。ガルトの三十年の声だった。地を這うように低く、だが遠くまで通る声だった。ガルトがこの戦で最も大きな声を出したのは、この瞬間だった。
声は丘を越え、左翼のバードに届き、中央のゴウに届き、右翼のロッツに届いた。千八百の全員が聞いた。
一呼吸の沈黙があった。
そして、四千五百が崩れた。
将を失った軍は、糸の切れた繰り人形のように崩れた。前列が退き始め、後列が混乱し、旗が倒れ、隊列が溶けた。左翼に圧をかけていた兵が引き始めた。右翼の騎兵が馬を返した。中央の敵が後退を始めた。
崩壊は、一度始まると止まらなかった。将がいない軍には、止まれという声がない。誰も止めない。誰も叫ばない。ただ、退く者の背を見て、次の者が退く。それが波のように広がっていった。
バードの左翼が、初めて押し返した。削られ続けた兵たちが、初めて前に出た。バードの声が聞こえた。「追うな! 深追いするな! ここで止まれ!」。勝った側が崩れないための声だった。
ロッツの右翼が、立て直した。
ゴウの中央が、一歩前に出た。ゴウの片腕が、槍を高く掲げた。
千八百が、四千五百を崩した。
◇
エルドは地面に座り込んでいた。
肩口の傷から血が流れている。深くはなかった。だが、体の力が抜けていた。声は、もう出なかった。戻っていた。いつものエルドに。小さな声の、言葉が途切れる、あの男に。
アレスがエルドの横に立った。
エルドは顔を上げた。汗と泥と血にまみれた顔だった。目は、まだ南を見ていた。崩れていく敵を。
「……お、わり……ましたか」
「終わった」
「……か、った……のですか」
「勝った」
エルドは少し黙った。
「……こ、え……でました、か」
「出た。全部聞こえた」
エルドの口元が、わずかに緩んだ。笑ったのかもしれない。笑おうとしたのかもしれない。
「……よ、かった」
それだけ言って、エルドは目を閉じた。気を失ったのではない。力が抜けただけだった。戦場の音が、ゆっくりと遠くなっていった。
アレスはエルドの横に座った。
勝鬨が上がり始めていた。ガルトの声。兵たちの声。千八百の声。
だが、アレスの耳には、エルドの最後の声がまだ残っていた。
「そこだ!」
あの一声が、全てを決めた。
第15話をここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
エルドが丘を降りました。
声が出なくなったから、自分の足で走って、目を前に持っていった。転んで、立ち上がって、また走った。筆を背負ったまま。あれを書いている時、自分でも少し目が熱くなりました。
1話で紙を渡すことすらためらっていた男が、短刀を抜いて敵将に斬りかかるところまで来ました。でもあれは、急に強くなったわけではないと思っています。エルドはずっとあの力を持っていた。ただ、使える場所がなかっただけです。
「そこだ!」の一声が、20年分の沈黙の答えでした。
次回、勝鬨の夜。ガルトが何を言うか、楽しみにしていてください。




