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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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14/20

14話 違う

アレスは紙を見た。


「本陣はあれではない」


 六文字。その意味を、頭が追いつくより先に、体が理解した。


「エルド、続きを書け」


 エルドは筆を握り直した。手が震えている。だが書いた。


「正面の旗は囮。動く旗は見せるために動く。見られるために動く。守る旗は動かない。右の奥に、動かない旗がある。敵将はそこにいる」


 アレスは紙を読みながら、南を見た。


 正面の敵本陣と思われていた場所には、大きな旗が三本立っている。その旗は、戦が始まってから何度か位置を変えていた。左に動き、中央に戻り、また少し右に寄る。旗が動くと、周囲の兵も動く。それが本陣の動きだと、誰もが思っていた。


 だが、エルドは見ていた。動かない旗を。


 右の奥。正面の旗から離れた位置に、もう一つ旗がある。小さい。目立たない。そして、動いていない。周囲の兵は多くないが、陣形が固い。守りの陣形だった。


 動く旗は見せるためにある。動かない旗は守るためにある。


 アレスはガルトに紙を見せた。


 ガルトは読んだ。顔を上げて、南を見た。目を細めた。右の奥を探している。


「……見えます。確かに、動いていない旗がある」


「あれが本陣だとエルドは見ている」


「正面のあれは囮だと」


「そうだ」


 ガルトはしばらく南を見ていた。考えている顔だった。


「……筋は通ります。ヴァルノなら、やる。正面に派手な旗を立てて注目を集め、本陣は別の場所に置く。ケルツを呑んだ時も、似た手を使ったという話がある」


「信じるか」


「信じるかどうかではなく」ガルトは言った。「あの旗が本陣だとして、そこを突けば戦が終わる。突いて外れたら、こちらが崩れる。賭けです」


「また賭けか」


「また賭けです」


 アレスは少し笑った。戦場で笑う余裕はなかった。だが、笑えた。


「エルド」


 エルドは南を見ていた。目が動いていなかった。一点を見ている。動かない旗の方向を。


「あれが本陣だと、確信はあるか」


 エルドは口を開いた。声が出なかった。喉が動いて、止まって、また動いた。


 紙に書いた。


「確信はない。だが、あの旗の周りの兵の動きは本陣を守る動きをしている。外に向かって戦っていない。内を守っている。あれは将がいる場所の動き」


 アレスは読んだ。


 確信はない。だが、見ている。兵の動きの質まで見ている。外に向かって戦う兵と、内を守る兵の違いを見分けている。


「ガルト」


「はい」


「精鋭を回す。あの旗を突く」


「何人ですか」


「三百」


「三百を抜けば、中央が薄くなります」


「後方のゴウの二百を中央に上げろ。ゴウが穴を埋める。中央はそなたとゴウで持ちこたえろ」


「ゴウの二百は予備です。使えば後がありません」


「後はない。ここで決める」


 ガルトは黙った。南を見た。動かない旗を見ていた。


「……あの旗の周囲に、何人いると見ますか」


「エルドに聞く。エルド」


 エルドが書いた。


「旗の周囲に親衛五十から七十。その外に歩兵百ほど。合わせて百五十前後」


「三百で百五十を突くなら、数の上では勝てます」ガルトは言った。「問題は、親衛の質です。将を守る兵は精鋭です。三百がぶつかって、抜けるかどうか」


「抜けなかったら」


「包まれて、三百が消えます。そうなれば、中央も持ちません。全軍が崩壊します」


 アレスは黙った。


 全てを賭ける瞬間だった。ここで三百を出さなければ、じわじわと削られて終わる。出せば、勝つか全滅するかのどちらかになる。


「出す」


「……御意」


 ガルトの声に、迷いはなかった。


「ガルト、三百の指揮を頼む」


 ガルトが振り返った。


「私が出るのですか」


「そなたの声がなければ、三百は動けない。エルドの目が方向を見つけても、それを兵に届ける声がなければ意味がない」


「しかし、中央は」


「中央はゴウに任せる。そなたの役目は、三百を旗まで連れていくことだ」


 ガルトはしばらく考えた。長い間だった。戦場では長い、という意味だ。実際には、三呼吸ほどだった。


「……分かりました。ただし、中央が崩れた場合の責任は取れません」


「取らなくていい。責任は私が取る」


「……御意」



 中央から精鋭三百を抜いた。


 ガルトが選んだ兵だった。常備の中でも、特に練度の高い者たちだ。三百が列を離れて、右翼の外側に回り始めた。


 同時に、後方のゴウの二百が中央に入った。ゴウが片腕で槍を持ち、兵を率いて穴に入った。


「ゴウ、持ちこたえろ」


「承りました。殿、三日分なら持ちます」


「半日でいい」


「なら楽です」


 ゴウは笑った。戦場で笑える男だった。


 三百が右翼の外に回った。敵から見えにくい丘の裏側を通って、右の奥へ向かう。エルドの地形図にあった、丘の東側の小さな窪みを使って姿を隠しながら進む。


 アレスは三百の先頭に立とうとした。


「殿」


 ガルトが止めた。


「先頭は私が出ます。殿はここにいてください。全体を見る目が要る。エルドの目を読めるのは、殿だけです」


 アレスは止まった。ガルトの言うことは正しかった。自分が前に出れば、エルドの紙を読む者がいなくなる。


「頼む」


「御意」


 ガルトが三百の先頭に立った。走り出す前に、一度振り返った。


「殿。エルドの目を信じます。外れたら、その時はその時です」


 それだけ言って、走り出した。三百がガルトの背中に続いた。



 三百が丘の裏に消えた後、アレスはエルドの横に戻った。


 エルドは紙を膝の上に置いて、南を見ていた。三百が回り込む先を目で追っている。


「エルド」


「……は、い」


「三百が着くまで、そなたの目が頼りだ。敵が三百に気づいたら、すぐに書け」


「……は、い」


 エルドの目が動いていた。三百の動き。敵の右翼の動き。動かない旗。全部を同時に追っている。


 左翼ではバードがまだ持ちこたえていた。中央はガルトが抜けた分をゴウが埋めている。右翼のロッツも、何とか立て直していた。


 だが、全て薄い。どこも余裕がない。三百を回したことで、全体がぎりぎりになっている。この状態で三百が外れたら、立て直す力は残っていない。


 エルドが紙に書いた。


「三百、まだ気づかれていない。丘の裏が死角になっている」


 アレスは読んだ。


「敵の右翼の騎兵は」


 エルドが書いた。


「騎兵はロッツに当たったまま。戻っていない。三百との間に距離がある」


 いい。まだ間に合う。


 時間が過ぎた。


 エルドは書き続けていた。三十秒ごとに、状況を紙に書いていた。タムがその紙をアレスに渡す。アレスが読む。指示が要れば、伝令が走る。


 エルドの目と、アレスの判断と、タムの足と、伝令の声。それが、千八百の命を繋いでいた。


 そして、三百が敵の本陣の近くに着いた。


 エルドが紙に書いた。


「三百、動かない旗の裏に到達。敵、まだ気づいていない」


 アレスは読んだ。心臓が打っていた。


 今だ。


「ガルトに合図を出せ。狼煙だ」


 タムが走った。見張りの場所へ。狼煙が上がった。


 三百が動いた。



 その瞬間を、エルドは見ていた。


 三百がガルトの号令で丘陰から飛び出し、動かない旗に向かって突入した。敵の外縁が裂けた。守りの兵が慌てて向き直る。だが遅い。三百は走りながら隊列を楔形に変えて、旗を目がけて突っ込んでいる。


 ガルトの声が聞こえた。遠いはずなのに、聞こえた。


「突っ込め! 旗を倒せ!」


 エルドは見ていた。三百が敵陣に食い込んでいく。旗の周囲の兵が固まって受ける。厚い。親衛の兵だ。簡単には抜けない。


 三百が止まりかけた。


 敵の親衛が、三百の先頭を押し返し始めた。包まれそうになっている。ガルトの声が聞こえた。「退くな! 押せ!」。だが、親衛は厚かった。


 同時に、左翼で新しい動きがあった。バードの陣に、敵の新しい一隊が当たった。左翼に予備を投入してきた。バードの兵が悲鳴を上げている。


 中央でも、敵が圧を強めた。ゴウの二百が入ったばかりの中央に、正面から一斉に押してきた。ゴウが叫んでいる。「踏ん張れ! ここで退くな!」


 全ての方面で、同時に圧力が増していた。三百が本陣を突いたことに気づいたのだ。ヴァルノが対応を始めている。時間がない。三百が旗を倒す前に、左翼か中央が崩れれば、全てが終わる。


 エルドは見ていた。全体を。三百の動き。敵の親衛の動き。その外側の騎兵の動き。左翼の押し合い。中央の踏みとどまり。右翼の崩れ。全部が、一度に見えていた。


 頭の中で、散っていたものが繋がり始めた。


 あの感覚が来ていた。二十年前に一度だけ起きた、あの感覚。全体が一本の線に結ばれる感覚。


 今、それが来ていた。


 エルドの肩の力が抜けた。視線が定まった。


 そして声が出た。


「右が空く!」


 その場にいた全員が振り返った。


 明瞭だった。小さくない。呂律も乱れていない。戦場の騒音の中で、誰の耳にも届く声だった。


 タムが口を開けていた。エルドの横にずっといた男が、初めてエルドの声を聞いた顔をしていた。


「三百の右側が空く。親衛が左に寄っている。右を抜ければ、旗の裏に出る」


 アレスは一瞬、動けなかった。エルドの声を聞いたことがなかった。こんな声を。低く、鋭く、迷いがない。評定で途切れ途切れに言葉を絞り出していた男と、同じ人間の声とは思えなかった。


 だがすぐに体が動いた。


「伝令! ガルトに伝えろ! 右を抜けろ!」


 伝令が走った。


 エルドの目は南を見たまま、戦場全体を追い続けていた。左翼のバード。中央のゴウ。右翼のロッツ。そして三百のガルト。四つの戦いが同時に動いている。その全てを、エルドは見ていた。見えているものが、そのまま声になって出ていた。


「今だ。親衛の交代の瞬間だ。前列が退いて後列が出る。その一瞬、隙間ができる。そこを抜けろ」


 アレスは叫んだ。


「ガルト! 今だ!」


 声が届いたかどうか分からなかった。だが、三百が動いた。右に寄って、親衛の隙間を突いた。


 抜けた。


 旗の裏に、三百の先頭が出た。ガルトの声が聞こえた。「押せ! ここだ!」


 エルドの声はまだ続いていた。


「旗の奥に将がいる。馬に乗っている。周囲に五人。右手に槍。逃げる準備はしていない」


 逃げる準備をしていない。それは、まだ本陣が突かれると思っていないということだ。囮の旗が注目を集め続けている。本陣が裏から突かれることを、ヴァルノ自身が想定していなかった。


 エルドの目が、それを見抜いていた。


 タムがエルドを見ていた。信じられないものを見る顔だった。あの、廊下で紙を渡していた男。評定で黙り込んでいた男。声が出ない男。その男が今、戦場の全てを声にしている。


 エルドの目は南を見たまま、声が出続けていた。途切れなかった。淀みなかった。戦場の全体が、一本の線として見えていた。


 その目が、止まった時。


 声も止まるだろう。


 だが今は、出ている。出ている間に、決める。


 アレスは丘の上に立ち、南に向かって叫んだ。


「本陣を割れ!」

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