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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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13/20

13話 崩れる左翼

夜明け前に、角笛が鳴った。


 敵の角笛だった。南から、低く、長く。地面を伝って腹に響く音だった。


 アレスは飛び起きた。外に出ると、南の丘の向こうに土埃が上がっていた。朝靄の中に、旗が見える。一本ではない。十本、二十本。数え切れない旗が、靄の中から湧き出るように現れた。


「来た」


 ガルトが横に来た。鎧をすでに着ていた。眠っていなかったのだろう。


「正面から来ます。旗の数から見て、三千以上」


「谷の迂回部隊は」


「まだ見えません。ですが、正面が始まれば動きます」


「布陣通りだ。動け」


 ガルトが走った。号令が飛ぶ。兵が動き始めた。



 丘の尾根に、千八百が並んだ。


 左翼にバードが五百を率いる。中央にガルトが八百。右翼に武官のロッツが三百。残りの二百はゴウの指揮で後方に控えた。東の窪みには、エルドの提案で伏せた二十人がいる。


 アレスは中央の後方、丘の頂に立った。戦場が一望できる位置だ。横にエルドがいた。エルドは紙と筆を持っていた。タムがその隣に立っている。三人の足元に、石で押さえた予備の紙が束になっている。


 ガルトが丘の下から声を上げた。


「配置、完了しました」


「よし」


 南を見た。敵の旗がまだ動いている。隊列を整えているのだろう。まだ突っ込んでこない。


 アレスは隣のエルドを見た。エルドは南を見ていた。目だけが動いていた。体は止まっている。呼吸が浅い。顔は白かった。


「エルド」


「……は、い」


「見えるか」


 エルドは南を見ていた。目が動いている。左から右へ、また左へ。旗を追っている。兵の列を追っている。


「……は、い。み、えます」


「何が見える」


 エルドは口を開いた。だが声が出なかった。喉が動いて、唇が震えて、音にならなかった。


 戦場の音が大きすぎた。角笛。馬の嘶き。甲冑が擦れる音。数千の人間が動く音。その中で、エルドの声は沈んだ。


「書け」


 エルドは筆を握った。紙に書き始めた。手が震えていた。だが、書けた。


「敵、三隊に分かれている。左に旗が多い。中央は薄い。右は見えない」


 アレスは読んだ。読んで、すぐにガルトの方を向いた。


「敵は三隊だ。左が厚い。中央が薄い。右が見えない」


 ガルトが頷いた。


「左が厚いということは、我々の左翼に当てる気でしょう。まずバードに圧をかけて、こちらの中央を引き出そうとする。教本通りの用兵です」


「教本通りなら、対処は分かるか」


「分かります。ただし、右が見えないのが気になる。ヴァルノは教本通りの男ではない」


「エルドもそう見ている」


 ガルトはエルドを一瞬見た。何も言わなかった。だが目が、紙を待っていた。


「右翼に注意しろ。敵の右が見えない。回り込んでくるかもしれない」


「御意。ロッツに伝えます」


 ガルトが伝令を飛ばした。



 敵が動いた。


 正面から、三千の主力が丘に向かって進み始めた。隊列は整っていた。ヴァルノの兵は、よく訓練されている。旗の動きに無駄がない。前列の槍が朝日を受けて光っている。足並みが揃っていた。一歩ごとに地面が震える。三千の足が、同じ拍子で地を踏む音は、遠くにいても腹に響いた。


 アレスの兵たちの間に、緊張が走った。目の前の丘を登ってくる敵の数を、初めて実感している顔だった。数字で聞いていた「四千五百」が、今、旗と槍と人間の壁として迫ってきている。


 最初にぶつかったのは左翼だった。


 バードの五百に、敵の一隊が当たった。千を超えていた。倍以上。バードは丘の斜面を利用して上から受けた。斜面を登る敵は体力を削られ、上からの槍が有利に働く。最初の衝突では、バードの側が押し返した。


 だが、押し返したのは一度きりだった。


 敵は退いてすぐに隊列を組み直し、再び登ってきた。今度は前列に盾を持った兵を並べていた。上からの槍を受けながら、じわじわと斜面を登る。盾の隙間から、短槍が突き出される。バードの兵が一人、盾の間から突かれて崩れた。その穴に、敵が一人入る。


 押し込まれ始めた。


「左翼が押されている」


 タムが叫んだ。アレスにも見えていた。左翼の端が、じりじりと後退している。バードが怒鳴っている声が、風に乗って断片的に聞こえた。「持ちこたえろ」「下がるな」。だが、下がっている。


 エルドが紙に書いた。


「敵は左を厚くしている。左を押して、中央を引き出すつもり。中央が動いたら、右から回り込む」


 アレスは読んだ。ガルトに見せた。


 ガルトは紙を一瞥して、頷いた。


「中央は動かさない」


「動かすな。左が下がっても、中央は動くな。バードには伝令を出せ。退くな、持ちこたえろ、と」


 伝令が走った。



 左翼の戦闘は、一刻を過ぎても終わらなかった。


 バードの五百は、よく持ちこたえていた。丘の斜面と細道が、敵の数の優位を削いでいる。エルドの地形図に描かれていた通りだった。細道では、大軍が横に広がれない。前列だけが戦い、後列は待つしかない。


 だが、持ちこたえているだけだった。押し返す力はなかった。


 敵は少しずつ、左翼の端を削っていた。兵が一人倒れる。もう一人倒れる。その隙間に、敵の兵が一人ずつ入り込んでくる。蟻が壁の隙間を広げるように、じわじわと。


 アレスは丘の頂から見ていた。バードの旗がゆっくりと後退しているのが分かる。後退の速度は遅い。バードの指揮が効いている。だが、確実に退いている。


 二度目の伝令が来た。


「左翼、二割が負傷。戦死は三十を超えました」


 三十。千八百のうちの三十。数字としては小さい。だが、三十人が死んだ。名前がある人間が、三十人。


 アレスは歯を食いしばった。援軍を出したかった。だが出せない。中央を動かせば、敵の思う壺だ。エルドの紙にそう書いてあった。


 バードから伝令が来た。


「左翼、三割が戦闘不能。持ちこたえられるのはあと半刻」


 アレスは歯を噛んだ。半刻。それまでに、何かを変えなければならない。


 エルドは書き続けていた。左翼の状況も見ていた。


「バードの五百、左端が薄い。敵はそこを狙っている。左端を捨てて、中央寄りに固まらせた方が持つ」


 アレスは読んで、即座に伝令を飛ばした。バードへ。「左端を捨てろ。中央寄りに固まれ」。


 伝令が走った。タムではない。タムはエルドの横から離れない。別の伝令兵が走った。


 しばらくして、左翼の動きが変わった。バードの兵が左端から退き、中央寄りに密集し始めた。退いた分だけ、左端に敵が入り込んだ。だが、密集したことで中央の厚みが増した。削られる速度が落ちた。


 エルドの紙が、兵を動かしている。


 アレスはそのことを、戦場の真ん中で初めて実感した。紙に書かれた文字が、伝令の足を通じて、五百人の動きを変えた。声ではない。旗でもない。紙と筆と、エルドの目が、戦場を動かしている。


 だが、まだ足りなかった。左翼は持ちこたえている。中央は踏みとどまっている。右翼は乱れている。守っているだけだ。守っているだけでは、削られて終わる。


 何かを変えなければ。攻めに転じなければ。だが、どこから。何を。


 エルドが紙を書いていた。手は震えていなかった。目は南を見たまま、手だけが動いている。書いている間だけ、エルドは止まらなかった。筆が走っている間は、頭と手が繋がっていた。


「中央、敵が半歩前に出た。誘っている。出てくるのを待っている」


 アレスは読んだ。エルドの目は正しかった。敵の中央が、わずかに前進していた。普通なら気づかない距離だ。だが、エルドは見ていた。半歩の動きを。


 アレスはエルドに向き直った。


「エルド、声で言えるか。ガルトに直接伝えた方が速い」


 エルドは口を開いた。「ちゅう、おう……が……」。そこで止まった。喉が閉じた。目が泳いだ。戦場の音が、エルドの声を飲み込んでいた。


「いい。書け」


 エルドは唇を噛んで、筆に戻った。


 アレスは紙をガルトに見せた。ガルトは一瞥して頷き、振り返って怒鳴った。


「動くな! 中央は一歩も出るな!」


 ガルトの声は、戦場に響いた。太く、低く、三十年の重みがある声だった。エルドの目が見たものを、ガルトの声が届けた。


 中央の兵が踏みとどまった。



 そして、右翼が動いた。


 エルドが見えないと言っていた、敵の右が。


 丘の東側から、騎兵が現れた。数は二百ほど。丘を迂回して、右翼のロッツの三百に横から当たってきた。


「右翼に騎兵!」


 見張りの叫びが上がった。ロッツの三百が慌てて向き直る。だが遅い。騎兵の速度に、歩兵の方向転換は追いつかない。


 右翼の端が崩れた。


 一瞬だった。騎兵が横から突入し、ロッツの隊列を裂いた。兵が散った。ロッツが槍を振るっているのが見えたが、押し戻せていない。


 だが、その時、東の窪みに伏せていた二十人が動いた。エルドの提案で配置した伏兵だった。騎兵の側面に、突然槍が現れた。


 騎兵の先頭が崩れた。馬が倒れ、後続が詰まった。二十人では騎兵二百を止められない。だが、一瞬の混乱を作れた。その一瞬で、ロッツが隊列を立て直す時間が生まれた。


 それでも、右翼は半分以上が乱れていた。ロッツが叫んでいる。「固まれ! 散るな!」。だが、一度崩れた隊列を戻すのは、崩すよりずっと難しい。


「ロッツが崩された!」


 タムが叫んだ。


 左翼は削られ、右翼は崩された。残っているのは中央のガルトの八百と、後方のゴウの二百だけだった。


 アレスは拳を握った。予想はしていた。エルドの分析通りだった。敵は左を厚くして押し、中央を誘い出そうとし、右から回り込んできた。全てが読み通り。だが、読み通りに崩されている。読めることと防げることは違う。


 このまま左翼が持たなくなれば、中央も動かざるを得なくなる。中央が動けば、正面が崩れる。正面が崩れれば、全軍が崩壊する。


 半刻。あと半刻で、何かを変えなければ。


 エルドが紙を書いた。手が速かった。


「右翼の騎兵は別動隊。本隊ではない。旗が違う。ヴァルノの本陣はまだ動いていない」


 アレスは読んだ。


「ヴァルノの本陣は、どこだ」


 エルドは南を見た。目が動いた。左から右へ。旗を追っている。動く旗と、動かない旗を見分けている。


 筆が止まった。


 エルドの目が、一点に縫い止められた。


 紙には何も書かなかった。書く代わりに、エルドの口が動いた。


「……ち、が……う」


 声は小さかった。戦場の騒音の中で、ほとんど聞こえない声だった。


 だが、アレスは聞いた。


「何が違う、エルド」


 エルドの口がまた動いた。だが声にならなかった。喉が詰まった。手が震え始めた。紙を握りしめた。


 タムが横にいた。エルドの顔を見ていた。


 ガルトが後ろにいた。エルドを見ていた。


 全員が、待っていた。


 エルドの声を。


 だが、声は出なかった。


 左翼ではバードの兵がまだ削られている。右翼ではロッツが立て直そうとしている。中央は動かず踏みとどまっている。だが、このままでは持たない。


 エルドは目を閉じた。口を閉じた。


 そして、筆を握り直した。


 紙に書いた。速かった。今までで、一番速かった。


「本陣はあれではない」


 アレスは紙を見た。六文字。


 顔を上げて、エルドを見た。エルドの目は南を向いていた。口は閉じていた。声は出なかった。だが、その目は、今まで見たどの目よりも鋭かった。


 評定で黙り込んでいた男の目ではなかった。紙の上で考えていた男の目でもなかった。


 戦場を見ている目だった。


 アレスはその紙を握りしめた。

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