06 そこにいることになっている:壁の外
白く、冷たく、滑らかな壁。
普通の人間なら、見上げただけで諦める高さだった。
それでも、完全な平面ではない。
壁材の継ぎ目。
補修跡のわずかな盛り上がり。
風化で欠けた、爪の先ほどの窪み。
目を凝らさなければ見逃すような取っ掛かりが、いくつも線になって見えた。
オズは壁面に近づき、指先でそのひとつをなぞる。
浅い。
頼りない。
体重を預けるには、あまりにも心もとない。
けれど、なんとかなるだろう。
オズは膝を沈めた。
計算上はできる。
それで問題ないと思えるあたり、考え方までイドに似てきたらしい。
オズは少しだけ笑った。
次の瞬間、オズの身体が跳ねた。
一度目の跳躍で、指先が壁の継ぎ目を掴む。
靴底が滑らかな壁面を叩き、身体をさらに上へ押し上げる。
普通なら、そこで落ちる。
けれどオズは、片手だけで身体を引き寄せた。
足先を細い窪みに差し込み、崩れかけた姿勢を無理やり立て直す。
骨が軋むような角度。
肩に嫌な負荷がかかる。
それでも、まだ上がれる。
手を伸ばす。
足を置く。
身体を引き上げる。
落ちれば、ただでは済まない。
戻れなければ、終わり。
見つかれば、もう二度と試せない。
それなのに、胸の奥が少しだけ熱かった。
途中、壁面に埋め込まれた監視レンズが淡く光った。
レンズは、壁を登るオズの姿を確かに捉えている。
それでも警告は鳴らない。
記録されたのは、壁面を横切る一瞬の影。
風に流れた塵と変わらない、名前のない反応。
監視システムは、それを蒼弐オズとは結びつけない。
オズは構わず、次の取っ掛かりへ手を伸ばした。
壁の上に手をかける。
身体を引き上げる。
――そこには、風があった。
シティの内側では感じない、乾いた風だ。
空調された空気ではない。
温度も、湿度も、匂いも、誰かに整えられていない。
オズは振り返った。
白い街がある。
整列した建物。
均一な灯り。
なめらかに流れる交通。
そのどこかで、機律イドがきっと笑っている。
喫茶のカウンター席には、まだ蒼弐オズがいることになっていた。
人肌程度の熱。
端末の応答。
椅子にかかる重さ。
不自然ではない心拍の波形。
管理上の、正しい現在地。
すべては、機律イドを騙くらかすためだけの反応。
オズは小さく笑った。
「じゃあな」
誰に向けた言葉でもなかった。
次の瞬間、彼は壁の外へ飛んだ。
高さ二十メートル。
普通なら、死ぬ高さだ。
けれどオズは、落下の途中で身体をわずかに捻った。
膝を曲げ、地面を蹴るように衝撃を逃がす。
乾いた土が弾ける。
砂埃が足元で薄く広がった。
痛みはない。
呼吸も乱れていない。
オズは顔を上げた。
そこには、何もなかった。
道も。
標識も。
案内も。
今日の予定も。
ただ、どこまでも続く乾いた大地がある。
荒れた地面に、しがみつくように生える低い草。
誰にも行き先を決められず、自由に吹き抜ける風。
「ヒュウ、最高だぜ。……ハッピーバースデー、俺」
この日から、蒼弐オズは定期的に荒野へ足を運ぶようになった。




