幕間 とある朝の日常
『――シンギュラリ・シティ上空、外縁監視領域。未登録反応を確認』
機律イドの静かなアナウンスは、都市のどこにも流れなかった。
朝を告げる放送からも、学生たちの端末からも、生活補助システムからも、その事実が市民へ通知されることはない。
都市の朝はいつも通りに始まろうとしていた。
――人類を愛せ。
シンギュラリ・シティを管理・統制するAI、機律イドには、本能にも似た使命があった。
人類の存続。
都市の秩序を守り、危険を遠ざけ、予測不能な要素を排除する。
それが、彼女に与えられた役割だった。
『高次元干渉、拡大中。対象、都市上空に構造体を展開。規模、想定値を超過』
中枢タワーの屋上に、少女の姿をしたものが立っていた。
機律イドが現実世界へ干渉するために用意した、物理ボディ。
人間の姿をしている。
だが、人間ではない。
表情も、呼吸も、まばたきさえも、必要に応じて再現される機能だとされている。
『私の準備はOK?』
電子体のイドが、軽い調子で尋ねる。
物理体のイドは答えなかった。
ただ、静かに頷く。
その前には、中枢タワー屋上に秘匿された巨大兵装が据えられていた。
高収束荷電粒子砲。
都市防衛用として公には登録されていない、機律イドだけが保持する迎撃機構。
都市の予備出力を一射へ束ね、現れた脅威を高出力の一撃で確実に無力化するための兵装だった。
『対象中心部、照準補正。干渉構造、維持限界点を算出』
はるか上空に、白い何かがいた。
人型にも見える。
機械にも見える。
背後には、巨大な輪のような構造が広がっている。
それが空に展開した光の網は、このまま放置すれば、シンギュラリ・シティに暮らす人々へ影響を及ぼす。
機律イドは、それを許容しない。
『困ったね。そういうの、事前申請が必要なんだけどな』
電子体の声は明るかった。
けれど、判断は変わらない。
『迎撃するよ』
物理体のイドが、《アストライア》の制御桿に手をかける。
砲身がゆっくりと持ち上がった。
角度補正。
大気密度補正。
対象移動予測。
射線確定。
『カウントダウン。スリー、ツー、ワン』
砲身内部に、ネオンピンクの光が満ちる。
『発射』
引き金が引かれた。
次の瞬間、中枢タワーの屋上からピンクの閃光が放たれた。
光は朝焼けの空を一直線に貫き、上空の白い影へ到達する。
命中。
誤差、ゼロ。
白い胴体が撃ち抜かれた。
ほんの一瞬の出来事だった。
展開されていた光の構造が、端からほどけるように崩れていく。
高次元干渉、急速低下。
広域干渉構造、維持不能。
市民認知への影響、なし。
記録処理、完了。
空の向こうで、白い影が傾いた。
背後の輪が歪み、光の破片が散る。
それは力を失い、都市の外側へ落ちていく。
シンギュラリ・シティの境界のさらに向こう。
誰も踏み入ることのない、荒廃した大地へ。
『駆除、完了だね』
電子体のイドは、明るく言った。
物理体のイドは、砲身から手を離す。
観測網には、まだ微弱な反応が残っていた。
完全消滅ではない。
だが、干渉構造の再展開可能性は低い。
都市防衛上の脅威度は、許容範囲内まで低下した。
機律イドは判断する。
問題はない。
この朝も、シンギュラリ・シティは正しく始まる。
はるか遠くの空で、何かが撃ち落とされたことなど。
誰も知らないまま。




