幕間 五歩うしろ:午前
瀬良トウヤが目を覚ました時、家の中には誰もいなかった。
寝室を出ても、人の気配はない。
リビングの照明は落とされ、窓の遮光板だけが半分ほど開いている。
差し込んだ朝の光が、白い床へ細長く伸びていた。
壁面端末には、両親からの伝言が一件ずつ残されている。
父親は、中枢タワーでの警邏任務。
母親も、予定外の作業が入ったため、早朝からタワーへ向かったらしい。
どちらの伝言にも、帰宅時刻は書かれていなかった。
「……お仕事熱心なことで」
トウヤは欠伸を噛み殺しながら、表示を閉じた。
テーブルの上では、用意された朝食が湯気を失いかけていた。
焼いたパン。
卵。
切り分けられた果物。
栄養量まで計算された、何の問題もない朝食だった。
椅子を引く気にはならなかった。
トウヤは冷蔵庫から水だけを取り出し、ひと口飲む。
『トウヤ、朝食が残ってるよ』
部屋のスピーカーから、機律イドの声がした。
「いらない」
『それは、あまり良い判断とは言えないなぁ』
「昼に食う」
『朝食は朝に食べるから、朝食なんだけど』
「細かいな」
トウヤは水の容器を回収口へ放り込み、玄関へ向かった。
『今日は何時に帰る予定か、決めてある?』
「決めてない」
『帰る時に教えてね』
「覚えてたらな」
『忘れないように、私から確認しようか?』
「それもいらない」
靴を履き、扉を開く。
『いってらっしゃい、トウヤ』
トウヤは返事をしなかった。
扉が閉じる。
誰もいなくなった家の中で、イドだけが朝食の保温を続けていた。
学校へ着くと、トウヤは机に突っ伏した。
眠っているように見える姿勢が、いちばん楽だった。
目を閉じていれば、話しかけられる回数が減る。
何かを期待されることもない。
愛想よく笑う必要もない。
ただ、眠れるわけではなかった。
教室の中で椅子が引かれる音。
ライトが忘れ物を探して、鞄の中身を机へ広げる音。
それをサユが呆れながら片づける声。
ノアが電子書籍のページを送るたび、指先が画面をなぞる微かな音。
オズが何かを隠す時にだけ、わずかに軽くなる口調。
目を閉じていても、全部聞こえていた。
廊下の向こうでは、別のクラスの生徒たちが笑っている。
階下では、自動清掃機が床を磨いている。
さらに遠く。
窓を閉めた教室の中まで、グラウンドで生徒を指導する体育教師の声が届いていた。
走れ。
足を止めるな。
そこ、フォームが崩れてるぞ。
その声に混じって、靴底が地面を蹴る音と、生徒たちの息遣いが重なる。
「……静かに寝たいんだけどな」
トウヤが呟く。
「寝てる場合じゃないだろ」
前の席からライトの声が返ってきた。
「寝てない」
「今、完全に寝てたじゃん」
「目を閉じてただけ」
「それを寝てるって言うんだよ」
『じゃあ、起きてるトウヤに答えてもらおうかな』
前方のモニターから、イドの声が飛んできた。
ライトが振り返り、気の毒そうな顔をする。
トウヤは机に伏せたまま答えた。
「第三都市区画の電力消費増加。原因は居住人口の偏り。解消するなら、供給網を増設する前に、区画間の人口移動を促す」
教室が一瞬、静かになった。
『正解』
イドは楽しそうに笑う。
『ちゃんと聞いてるなら、顔くらい上げたら?』
「聞くのに顔は要らないだろ」
「なんでそれで成績最下位なんだよ……」
ライトの声が、妙に遠く聞こえた。
トウヤは答えず、腕の中へ顔を埋め直した。
また、教室の音が戻ってくる。
誰かが笑っている。
誰かが文句を言っている。
誰かが、次に何をするか決めている。
その全部が鮮明に聞こえているのに、自分だけが少し離れた場所にいるような気がした。




