5 黒剣と護符
祭場の空気が、静かに張り詰めていく。
龍宮院家の者たちは、龍宮院の契約陣の周囲へ。
神宮寺家の者たちは、神宮寺の契約陣の周囲へ。
誰かが大きな声を出したわけじゃない。
けれど、みんなが自然と動きを止めて、中央にある二つの陣へ意識を向けていた。
僕は黒い剣を抱えたまま、父様の少し後ろに立っていた。
隣には響兄様。
少し離れたところに海斗兄様。
海斗兄様はいつも通り表情を変えない。
ただ立っているだけなのに、周りの人たちよりずっと静かで、ずっと遠く見えた。
神宮寺家の方では、聖が尊臣様の近くに立っている。
白い装束。
金色の髪。
金色の目。
その手には、小さな護符があった。
薄い紙のようにも、布のようにも見える。
白地に金の紋様が描かれていて、聖の指先に挟まれていた。
龍宮院は剣。
神宮寺は護符。
呼び出すものが違えば、使うものも違う。
そんなことを、翠が前に教えてくれた気がする。
でも今は、そんなことを思い出しても、胸の苦しさは少しも消えなかった。
「これより、契約の儀を始める」
父様の声が響いた。
低く、静かで、それなのに祭場の端まで届く声だった。
ざわつきは一瞬で消える。
森の音まで遠くなったように感じた。
父様は神宮寺家の方へ視線を向ける。
尊臣様が静かに頷いた。
「神宮寺家も、儀式を始めます」
二つの家の当主が、同じ場で儀式の開始を告げる。
その瞬間、足元の石畳の奥から、何かがゆっくりと目を覚ますような感覚がした。
空気が、わずかに震える。
龍宮院の契約陣が、淡く光った。
神宮寺の契約陣も、それに応じるように薄い金色の光を帯びる。
僕の喉が、からからに乾いた。
「颯真」
父様が僕を呼んだ。
体がびくりと跳ねそうになる。
でも、なんとか剣を抱え直して前を向いた。
「龍宮院の陣へ」
「……はい」
声が小さかった。
自分でも分かるくらい、小さくて情けない声だった。
足が重い。
でも、行かなきゃいけない。
僕は一歩、前に出た。
その時、横から小さな声がした。
「颯真」
響兄様だった。
振り向くと、響兄様は穏やかな顔で僕を見ていた。
でも、その目は真剣だった。
「手順通りでいい」
「……」
「怖くても、声が震えても、最後まで言えばいい」
車の中で聞いた言葉と似ている。
でも今は、さっきより近く聞こえた。
「颯真なら、立てるよ」
胸の奥が、変に痛くなった。
やめてほしい。
そんなふうに言われると、逃げたくても逃げられなくなる。
嫌いだと思いたいのに。
信じたくないのに。
それでも、ほんの少しだけ、足が動いた。
「……分かってます」
僕はそう答えて、前を向いた。
響兄様はそれ以上何も言わなかった。
その沈黙が、背中を押しているみたいだった。
龍宮院の契約陣は、石畳に深く刻まれていた。
幾重にも重なった円。
龍の鱗みたいな細かい紋様。
中心へ向かう線。
全部が淡く光っている。
僕が近づくたびに、その光が少しだけ揺れた。
周囲の視線が刺さる。
分家の人たち。
使用人たち。
神宮寺家の人たち。
父様。
海斗兄様。
響兄様。
みんなが見ている。
やっぱり逃げたい。
剣を捨てて、走って、どこかに隠れたい。
でも、足は止めなかった。
止まったら、さっき笑った人たちの顔が浮かぶ。
それだけは嫌だった。
僕は陣の中央に立った。
そこだけ、空気が少し違った。
足元から、冷たくて重いものが伝わってくる。
大地の奥を流れる力。
龍脈。
そう呼ばれるものなのだと、教えられたことがある。
僕は剣を両手で持った。
重い。
思っていたよりも、ずっと重い。
鞘から剣を抜くと、薄い音がした。
黒い鞘の中から現れた刃は、朝の光を受けて鈍く光っていた。
戦うための剣ではない。
道を繋ぎ止めるための楔。
響兄様の言葉を思い出す。
強く打ち込まなくていい。
まっすぐ、中心に立てればいい。
僕は刃先を陣の中心へ向けた。
手が震える。
でも、離さない。
「……っ」
息を吸って、剣を突き下ろした。
刃が石畳に触れた瞬間、硬いはずの床が水みたいに揺れた。
剣は抵抗なく、陣の中心へ沈むように突き立った。
淡い光が、剣の根元から円を描いて広がっていく。
小さく、周囲が息を呑む音がした。
僕は両手で柄を握った。
手のひらが汗で湿っている。
でも、もう離せない。
離したら、全部終わる気がした。
隣の神宮寺の陣でも、聖が動いた。
白い装束の袖を揺らしながら、聖は神宮寺の契約陣の中央へ進む。
その指には、金の紋様が描かれた護符。
聖はそれを人差し指と中指の間に挟み、胸の前で構えた。
護符が淡く光る。
金色の光。
神宮寺の陣が、その光を受けて静かに輝いた。
すごい。
そう思ってしまった。
僕の陣の光は、弱い。
剣を刺しても、かろうじて淡く広がっているだけ。
なのに聖の陣は、最初から澄んだ金色を帯びている。
やっぱり、違う。
僕とは違う。
「颯真」
父様の声がした。
「呪文を」
心臓が跳ねた。
そうだ。
ここからだ。
剣を刺すだけじゃ終わらない。
呪文を唱えなきゃいけない。
最後まで。
途中で止めずに。
僕は柄を握る手に力を込めた。
何度も練習した言葉を、頭の中で探す。
大丈夫。
大丈夫じゃない。
忘れたらどうしよう。
間違えたら。
声が出なかったら。
その時、視界の端で響兄様が見えた。
響兄様は何も言わない。
ただ、僕を見ていた。
逃げろとも、頑張れとも言わない。
でも、車の中の言葉がよみがえる。
声が震えてもいい。
最後まで言い切ること。
僕は唇を開いた。
「――古き龍脈に、我が名を捧げる」
声が震えた。
小さい。
でも、出た。
陣の光が、かすかに揺れる。
「大地の底に眠る道よ、我が呼び声に応えよ」
隣から、聖の声も重なった。
「――清き聖脈に、我が祈りを捧げます」
聖の声は、澄んでいた。
僕よりずっとまっすぐで、迷いがないように聞こえた。
護符の金色の光が、ふわりと広がる。
神宮寺の陣が、さらに明るくなった。
僕の胸が苦しくなる。
でも、止めたらだめだ。
途中で止めたら、道が不安定になる。
僕は剣の柄を握りしめた。
「境を越え、空を渡り、我が前に姿を示せ」
声が震える。
喉が痛い。
でも言う。
言わなきゃいけない。
「契りを求める者、龍宮院颯真の名において――」
足元の光が、また小さく揺れた。
弱い。
薄い。
今にも消えそうな光。
周囲の空気が、わずかに変わった気がした。
誰かが、小さく息を呑む。
分かっている。
やっぱり、僕の魔力じゃ足りないんだ。
でも。
まだ終わっていない。
僕は唇を噛みそうになるのをこらえて、続きを絞り出した。
隣では聖が護符を掲げ、金色の光の中で呪文を唱え続けている。
二つの声が、祭場に重なっていく。
龍の道を開く言葉。
神獣の道を開く言葉。
僕は黒剣を握ったまま、消えそうな光から目を逸らさなかった。




