3 嘲笑を裂く銀眼
車が止まった瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
窓の外には、深い森が広がっている。
古い石段。
苔のついた灯籠。
鳥の声すら遠く感じる、静かすぎる空気。
ここが、契約の儀を行う山。
龍宮院家と神宮寺家が共同で管理する、神聖な場所。
そう聞かされていた。
でも僕には、神聖というより、逃げ場のない場所に見えた。
「到着しました」
運転席の使用人が静かに告げる。
先に車を降りた翠が、扉を開けた。
「颯真様、お足元にお気をつけください」
「……うん」
僕は膝の上の剣を抱え直して、車から降りた。
朝の空気は冷たかった。
黒い儀式服の袖の中で、指先が少し震える。
剣はさっきよりも重く感じた。
ただの道具じゃない。
僕が今日、陣の中央に突き刺すもの。
失敗するかもしれない儀式の、始まりになるもの。
「颯真」
後ろから響兄様の声がした。
振り向くと、響兄様がすぐ近くに立っていた。
穏やかな顔。
でも、その目はいつもより少しだけ真剣だった。
「剣、持てる?」
「持てます」
少し強く答えてしまった。
響兄様は怒らず、ただ小さく頷いた。
「分かった」
それ以上、何も言わない。
それが逆に、胸に引っかかった。
手伝おうか、とは言われなかった。
子供扱いされなかった。
でも、優しくされている気はする。
嫌だ。
その優しさに少し安心してしまう自分が、一番嫌だった。
石段の上には、すでに多くの人がいた。
龍宮院家の使用人。
神宮寺家の者たち。
そして、龍宮院家の分家の重鎮たち。
白髪混じりの男。
扇で口元を隠す女。
背筋を伸ばし、いかにも偉そうに立つ老人たち。
僕は、その人たちの視線が一斉にこちらへ向くのを感じた。
痛い。
目で刺されているみたいだった。
「……あれが」
「大介様の三男か」
「ずいぶん小さく見えるな」
「魔力がないと、気配まで薄い」
声は小さい。
でも、聞こえた。
聞こえないふりをしたかった。
なのに耳が勝手に拾ってしまう。
胸の奥が熱くなった。
怒りなのか、恥ずかしさなのか、分からない。
僕は剣を抱える腕に力を込めた。
その時だった。
一人の分家の老人が、僕を見て、薄く笑った。
はっきりと、嘲笑の形だった。
その隣の女も、扇の奥で口元を緩める。
ああ。
やっぱり。
みんな、僕が失敗するところを見に来たんだ。
龍宮院の恥になるところを。
海斗兄様と響兄様の弟なのに、何もできない僕を。
頭の奥が真っ白になりかけた。
足が止まる。
石段の途中で、体が動かなくなった。
「颯真様」
翠の声が、低く寄り添うように聞こえた。
でも、返事ができなかった。
怖い。
嫌だ。
行きたくない。
心の中で、みっともない言葉がぐるぐる回る。
その瞬間、空気が変わった。
冷たいものが、祭場の前に広がる。
風が吹いたわけではない。
音がしたわけでもない。
ただ、そこにいた全員が息を呑んだ。
僕はゆっくり顔を上げた。
少し前に、海斗兄様が立っていた。
いつの間に車を降りたのか、気づかなかった。
黒を基調にした正装。
銀色の髪。
冷たく澄んだ銀の瞳。
海斗兄様は何も言わず、ただ分家の重鎮たちへ視線を向けていた。
それだけだった。
それだけなのに、さっきまで小さく笑っていた人たちが、一斉に表情を消した。
扇を持っていた女の手が、わずかに止まる。
老人の喉が、ごくりと鳴った。
「……海斗様」
誰かが掠れた声で呼んだ。
海斗兄様は答えない。
ただ、その銀の目で見ている。
冷たい。
怖い。
僕に向けられているわけじゃないのに、背筋が震えるほどだった。
「儀式前だ」
海斗兄様が、短く言った。
低く、静かな声。
でも、石段の空気を支配するには十分だった。
「慎め」
たったそれだけ。
なのに、誰も言い返さなかった。
さっき僕を見て笑った老人が、わずかに頭を下げる。
「……失礼いたしました」
女も扇を下げ、視線を伏せた。
他の分家の者たちも、慌てたように姿勢を正す。
嘲笑の空気は、消えていた。
まるで最初からなかったみたいに。
でも僕は、見ていた。
笑われたことも。
海斗兄様が、それを止めたことも。
胸の奥が変なふうに揺れる。
海斗兄様は僕を見てくれない。
僕に興味なんかない。
そう思っていた。
今も、そう思いたい。
だって、そうじゃなきゃ困る。
嫌いでいる理由が、なくなってしまう。
海斗兄様は、分家の者たちから視線を外すと、こちらを見た。
ほんの一瞬。
銀色の目が、僕を捉える。
何か言われるのかと思った。
弱い。
止まるな。
進め。
そんな言葉を想像して、僕は身構えた。
でも海斗兄様は、何も言わなかった。
ただ、僕が抱えている剣を一度見て、それから祭場の方へ歩き出した。
その背中は、まっすぐだった。
誰にも揺らされない背中。
怖くて、遠くて、腹が立つくらい頼もしい背中。
「……颯真」
響兄様が、横に来た。
「行こう」
その声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
僕は唇を噛んだ。
行きたくない。
でも、ここで止まったら、さっき笑った人たちに負けたみたいで嫌だった。
それだけは、もっと嫌だった。
「……分かってます」
僕は小さく答えて、剣を抱え直した。
足を前に出す。
一段。
また一段。
石段を上がるたびに、周囲の視線が体に刺さる。
でも、さっきよりは少しだけ歩けた。
海斗兄様が僕を助けたなんて、思いたくない。
響兄様が隣にいて安心したなんて、絶対に認めたくない。
それでも。
僕は、止まらなかった。
祭場の奥から、澄んだ気配が流れてくる。
龍脈と聖脈が重なる日。
契約の儀。
最悪な今日が、いよいよ始まろうとしていた。




