2 黒剣と兄の声
車の中は、静かだった。
窓の外を流れていく景色は、だんだん街から離れていく。
高い建物が減って、道路の両側に木が増えて、空気まで少しずつ変わっていくような気がした。
僕は後部座席の端に座って、膝の上に置いた剣を見下ろしていた。
儀式用の剣。
子供の僕が持つには、少し重い。
でも、戦うための剣ではないらしい。
鞘は黒く、柄には龍宮院の紋が入っている。刃はまだ抜いていないけれど、ただ膝に置いているだけで、冷たい気配が布越しに伝わってくる気がした。
これを持って、陣の中央に立つ。
そして、剣を陣の中心に突き刺す。
そのあと、契約の呪文を唱える。
何度も聞いた。
何度も練習した。
でも、頭の中では、ぐちゃぐちゃになっていた。
「……響兄様」
僕は隣に座る響兄様を見た。
響兄様は、僕と同じように儀式用の装いをしているわけではない。
けれど、いつもよりきちんとした服を着ていて、背筋も伸びていた。
穏やかな顔で、こちらを見る。
「どうしたの、颯真」
「儀式の手順、もう一回聞いてもいいですか」
そう言った瞬間、自分でも嫌になった。
何回も確認したのに。
こんなことを聞いたら、怖がっているみたいだ。
失敗するって、自分で分かっているみたいだ。
でも響兄様は、笑わなかった。
呆れた顔もしなかった。
「もちろん。確認しよう」
その声が優しくて、少しだけ胸が痛くなった。
まただ。
そういう声を出す。
まるで僕が本当に大丈夫みたいに。
「まず、祭場に入ったら、父様の指示があるまで待つ」
「……はい」
「呼ばれたら、龍宮院の契約陣の中央へ進む。剣は鞘ごと持っていていい」
「中央に行ったら、抜くんですよね」
「うん。陣の中心に立ったら、剣を抜く。それから、刃先を陣の中心に向けて、まっすぐ突き立てる」
僕は膝の上の剣を見た。
これを、あの陣の真ん中に。
大勢の人が見ている前で。
「剣を刺したら?」
「両手で柄を持って、呪文を唱える。途中で止めないこと。声が震えてもいいから、最後まで言い切ること」
「……声、震えてもいいんですか」
「いいよ」
響兄様はすぐに言った。
「大事なのは、呪文を最後まで繋ぐことだから」
「間違えたら?」
「少しくらいなら、陣が補正してくれる。でも、大きく間違えたり、途中でやめたりすると、道が不安定になる」
道。
異界への道。
龍がいる場所へ繋がる道。
僕の魔力で、本当にそんなものが繋がるのだろうか。
繋がらなかったら、どうなるのだろう。
剣を刺して。
呪文を唱えて。
何も起きなかったら。
祭場の中で、僕だけが黙って立っていることになる。
海斗兄様も、響兄様も、父様も、使用人たちも、神宮寺家の人たちも、みんなが僕を見る。
何も起こせなかった僕を見る。
手のひらに汗がにじんだ。
僕は剣の鞘を少し強く握る。
「……颯真」
響兄様が、静かに僕の名前を呼んだ。
僕は顔を上げなかった。
「分からないところがあれば、何度でも聞いていい」
「……でも、もう何回も聞きました」
「何回聞いてもいいよ」
「僕が覚え悪いからですか」
言ってから、しまったと思った。
でも、口は止まらなかった。
「響兄様は、僕が失敗すると思ってるから、優しく教えてくれるんですか」
車内の空気が、少しだけ硬くなった。
前の席に座っている翠が、わずかにこちらを見た気がした。
響兄様はすぐには答えなかった。
怒ったのかもしれない。
呆れたのかもしれない。
でも、響兄様の声は変わらなかった。
「僕は、颯真に失敗してほしいと思っていない」
「そんなの、当たり前じゃないですか」
「うん。当たり前だね」
「でも……」
でも。
信じているとも違う。
期待しているとも違う。
きっと、響兄様は優しいから、僕が傷つかないようにしているだけだ。
そう思った。
「響兄様の時は、すごかったんですよね」
「僕の時?」
「みんな言ってます。海斗兄様も、響兄様も、すごかったって」
「……そう」
「僕は違う」
剣を握る手に、力が入った。
「僕は、何もできない」
「颯真」
「魔力もない。龍宮院なのに。海斗兄様と響兄様の弟なのに」
言葉にしたら、胸の中に溜まっていたものがこぼれそうになった。
嫌だ。
こんなふうに言いたくなかった。
弱いところなんて見せたくない。
でも、もう止まらない。
「今日だって、兄様たちが見に来るんでしょ。失敗するところを」
「失敗するところを見に行くんじゃない」
「じゃあ何を見に来るんですか」
僕はやっと、響兄様を見た。
響兄様は、まっすぐに僕を見ていた。
その目が嫌だった。
優しくて、逃げ場がない。
「颯真が、自分の儀式に立つところを見に行く」
「……同じです」
「同じじゃない」
響兄様の声は、柔らかいのに、少しだけ強かった。
「契約の儀は、結果だけを見るものじゃない。少なくとも、僕はそう思っている」
「綺麗事です」
「そうかもしれない」
響兄様は否定しなかった。
だから余計に、何も言えなくなった。
「でも、颯真が怖いと思いながらも祭場に向かっていることを、僕は知っている」
「……」
「それを、何もないとは思わない」
僕は唇を噛んだ。
そんなことを言わないでほしかった。
怒れなくなる。
嫌いだと思いたいのに、胸が変なふうに苦しくなる。
響兄様は、膝の上の剣へ視線を落とした。
「その剣は、颯真を試すためだけのものじゃない」
「……じゃあ、何ですか」
「道を繋ぐための楔だよ」
「くさび?」
「うん。陣に剣を突き立てることで、こちら側と向こう側を繋ぎ止める。呪文は、その道を開くための言葉」
響兄様の説明は、ゆっくりだった。
僕が分かるように、難しい言葉を少しずつほどいてくれる。
「だから、剣を刺す時は怖がらなくていい。強く打ち込もうとしなくても、陣が受け入れてくれる。まっすぐ、中心に立てればいい」
「まっすぐ……」
「そう。颯真の手で、まっすぐ」
僕は剣を見下ろした。
黒い鞘。
銀の紋。
自分には似合わないと思っていた。
今も、似合うとは思えない。
でも、この剣を持って陣に立つのは、僕だ。
誰かが代わりにやってくれるわけじゃない。
海斗兄様でも、響兄様でもなく。
僕が。
「呪文、途中で忘れたら」
「僕を見るといい」
「え?」
「声は出せないけど、口の動きくらいなら合わせられる」
響兄様は少しだけ笑った。
「父様に怒られない程度にね」
「……それ、ずるじゃないですか」
「補助だよ」
「同じです」
「そうかな」
響兄様は穏やかに言った。
僕は少しだけ視線を逸らした。
大嫌いだ。
そう思っていたのに。
今も、そう思っているはずなのに。
ほんの少しだけ、胸の中の重さが変わった気がした。
車は山道に入っていく。
木々が深くなり、窓の外の光が細く揺れた。
祭場が近づいている。
逃げられない。
その事実は変わらない。
僕は剣を抱え直した。
さっきよりも、少しだけ重く感じた。
けれど今度は、その重さから目を逸らさなかった。




