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神龍ノ國  作者: はちみつレモン
序章

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1 黒衣の誕生日

今日は、最悪だ。


 朝、目を覚ました瞬間からそう思った。


 天井を見上げても、窓の外から差し込む光を見ても、胸の奥に重たい石が落ちているみたいだった。


 今日は僕の誕生日。


 本当なら、少しくらい嬉しくてもいい日なのかもしれない。


 けれど、今年は違う。


 六歳になる年。


 龍宮院の子供が、龍と契約する年。


 そして、よりにもよって今年の契約の儀は、僕の誕生日と同じ日になった。


 最悪だ。


 誕生日だけでも、朝から使用人が出入りして落ち着かないのに。


 契約の儀まで重なるなんて。


 しかも、どうせ失敗する儀式だ。


 僕は知っている。


 僕には魔力がほとんどない。


 何度も検査された。


 何度も大人たちが困った顔をした。


 僕が部屋の隅で座っていると、廊下の向こうで小さな声がしたこともある。


 龍宮院の子なのに。


 大介様の三男なのに。


 海斗様と響様の弟なのに。


 どうして。


 その声は、聞こえないふりをしても、ずっと耳の奥に残っている。


「颯真様、失礼いたします」


 控えめな声と一緒に、扉が開いた。


 入ってきたのは、僕付きのメイドである翠だった。


 いつも通り、背筋を伸ばして、静かに一礼する。


 翠は僕を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「おはようございます、颯真様」


「……おはよう」


「本日は、契約の儀でございます。お支度を始めてもよろしいでしょうか」


 よろしいでしょうか、と聞くけれど、嫌だと言っても意味なんてない。


 僕が何を言っても、今日は祭場に行く。


 龍宮院家の子供だから。


 当主の息子だから。


 海斗兄様と響兄様の弟だから。


 みんな、僕を見る時にそういう目をする。


 僕自身じゃなくて、誰かの弟として見る。


「……うん」


 小さく頷くと、翠は深く頭を下げた。


「かしこまりました」


 翠の後ろから、数人の使用人が入ってくる。


 運ばれてきた衣装を見て、僕は思わず眉を寄せた。


 黒い儀式服。


 龍宮院家の契約の儀で着るための、特別な服だった。


 黒を基調にした布地には、銀糸で龍の紋様が縫い込まれている。


 襟元も袖口もきっちりしていて、いかにも格式ばっていて、見ているだけで息が詰まりそうだった。


「……黒い」


「龍宮院家の正式な儀式服でございます」


「知ってる」


 つい、尖った声が出た。


 翠は怒らなかった。


 ただ静かに、衣装を広げる。


「本日は長くお召しになります。苦しいところがあれば、すぐにお申し付けください」


「……別に」


 僕はベッドから降りた。


 足元が少し冷たい。


 翠が近づいて、寝間着の紐に手をかける。


 その手つきは丁寧で、迷いがない。


 いつもなら、何も考えずに任せている。


 でも今日は、布が肌から離れていくたびに、これから逃げられないのだと思い知らされる気がした。


 黒い服が、少しずつ僕の体を包んでいく。


 袖を通す。


 帯を締める。


 飾り紐を整えられる。


 胸元に龍宮院の紋が留められる。


 鏡の中に映った僕は、まるで知らない子供みたいだった。


 黒い服に着られている、ちっぽけな子供。


 これから龍を呼び出す者の姿には、とても見えない。


「よくお似合いです」


 翠が言った。


 心にもないことを。


 そう思った瞬間、胸の奥がざらついた。


 大人はみんなそうだ。


 似合っている。


 大丈夫。


 きっとうまくいく。


 そういう言葉を、簡単に言う。


 失敗したらどうするの。


 何も出なかったら。


 弱い龍すら来なかったら。


 兄様たちの前で、僕が何もできなかったら。


 そう思っても、誰も本当のことは言わない。


 海斗兄様は、僕を見てくれない。


 たまに目が合っても、その銀色の目はすぐに別のものを見る。


 僕じゃなくて、書類とか、部下とか、響兄様とか。


 海斗兄様はすごい。


 みんながそう言う。


 僕だって知っている。


 怖いくらい強くて、怖いくらい綺麗で、何でもできる人。


 だからこそ嫌いだ。


 僕なんか、兄様の視界に入らない。


 響兄様は、優しい顔をする。


 大丈夫だよ、颯真。


 心配しなくていい。


 そう言う。


 でも、それも嫌いだ。


 だって響兄様は知っているはずだ。


 僕の魔力が弱いことも。


 今日の儀式で何も起きないかもしれないことも。


 それなのに、優しい声で言う。


 大丈夫だなんて。


 心にもないことを。


 大嫌いだ。


 海斗兄様も。


 響兄様も。


 龍宮院家も。


 契約の儀も。


 今日という日も。


 全部、大嫌いだ。


「颯真様」


 翠の声で、はっとした。


 鏡の中の僕は、唇を強く噛んでいた。


 翠が膝をつき、僕の目線に合わせる。


「お顔色が優れません。少し、お水をお持ちいたしましょうか」


「いらない」


「ですが」


「いらない!」


 思ったより大きな声が出た。


 部屋の空気が、一瞬止まる。


 使用人たちがわずかに身を固くしたのが分かった。


 僕はすぐに視線を逸らした。


 違う。


 翠に怒りたかったわけじゃない。


 でも、口から出てしまった。


 胸の中がぐちゃぐちゃで、どうすればいいのか分からなかった。


「……ごめん」


 小さく言うと、翠は少しだけ目を伏せた。


「謝罪には及びません」


「……怒ってないの?」


「颯真様が苦しい思いをされていることは、分かっております」


 分かってる。


 その言葉も、少し嫌だった。


 でも翠の声は、他の大人たちみたいに軽くなかった。


「本日の儀式は、颯真様にとって大切な日です。ですが、恐ろしい日でもあるのでしょう」


「……」


「無理に笑う必要はございません」


 その言葉に、喉の奥が詰まった。


 泣きそうになったわけじゃない。


 絶対に違う。


 ただ、息が少し苦しくなっただけだ。


「でも、行かなきゃいけないんでしょ」


「はい」


 翠は嘘をつかなかった。


「龍宮院家の儀式ですので」


「……ほら」


 やっぱり。


 僕が行きたくなくても、行かなきゃいけない。


 失敗すると分かっていても。


 兄様たちに見られると分かっていても。


 みんなの前で、恥をかくかもしれなくても。


 僕は行かなきゃいけない。


 翠は最後に、僕の襟元を整えた。


「お支度は整いました」


 鏡の中の僕は、黒い儀式服を着て立っている。


 誕生日なのに。


 お祝いの日のはずなのに。


 まるで、これから裁かれに行くみたいだった。


 僕は小さく息を吸う。


 胸が重い。


 足が動かない。


 それでも、扉の向こうにはもう、今日が待っている。


 最悪な今日が。

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