第9話 黒いグリッドの侵食 ーー 実数世界の正論
〔一〕
メールが届いたのは、火曜日の午前中だった。
件名は「イマジナリー・ゾーン社 M&Aご提案について」。
差出人は見知らぬアドレスだったが、本文の冒頭に見覚えのある名前があった。
入院前にやりとりしていたMAエージェント会社の担当者の名前。その紹介で連絡した、と書いてあった。
僕は画面を閉じかけて、止まった。
入院前、僕は密かにMAエージェントに相談していた。
会社の資金繰りが限界に近づいていることは、数字を見れば明らかだった。融資の返済が滞り、補助金は凍結され、このまま何も動かなければ、いつか破産という結末が来る。その前に、誰かに会社を引き取ってもらえれば。従業員の雇用を守れれば。それが当時の僕の、ぎりぎりの希望だった。
退院してからも、状況は根本的には変わっていなかった。守屋と都築からの督促が一時止まったことは、息継ぎにはなった。しかしそれは解決ではなく、猶予だった。
邑とも話した。
「買い手がつくなら、それが一番きれいな終わり方かもしれない」と邑は言った。感情を抑えた言い方だったが、それが彼女の本心だと思った。
メールをもう一度開いた。
送信者は「久我山」と名乗っていた。米国に本拠を置く政府系ファンド、と自己紹介があった。イマジナリー・ゾーン社の技術領域に強い関心があること。条件次第では、迅速な対応が可能であること。
僕は返信した。
LINEアドレスを交換した。
その日の夕方、久我山からLINEが届いた。
「本日このあとのお時間、いただけますでしょうか。ご挨拶だけでも」
邑に見せた。邑は少し考えて、「早いほうがいい」と言った。
返信した。
数時間後、インターホンが鳴った。
〔二〕
久我山は、四十代の後半に見えた。
長身で、よく手入れされたスーツ。顔立ちは日本人とも西洋人とも判断がつかない、曖昧な均整を持っていた。手下の二人は玄関に残した。久我山だけが居間に入ってきた。
「お邪魔いたします。突然のご連絡にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
久我山はソファに座る前に、名刺を差し出した。
厚みのある、白い名刺だった。
深層共鳴数機構 東アジア統括
縦書きで、そう記されていた。横には久我山という名前だけ。電話番号も住所も、メールアドレスも、どこにもなかった。
僕も名刺を返した。退院後に作り直した、肩書きのないシンプルなものを。
久我山は受け取って、一度だけ見た。それだけだった。テーブルに置かなかった。すぐに、自分のスーツの内ポケットへ戻した。
穏やかな日本語だった。外国訛りは感じられなかった。ただ、言葉の選び方が精密すぎた。
邑が、無意識に僕の隣に移動した。名刺に目を落としていた。
廊下の奥で、夏逢の気配がした。部屋には来なかった。しかしそこにいた。
久我山はソファに座り、背筋を伸ばした。書類も持たず、タブレットも出さず。しかし居間に入った瞬間から、空気の質が変わっていた。守屋のような制度的な圧力ではない。もっと個人的な、しかしより広い何かの重さ。
「単刀直入に申し上げます」と久我山は言った。
「イマジナリー・ゾーン社の現状を拝見するに、このまま独立した法人として継続することは、数字の上では非常に困難です。融資の返済状況、補助金の凍結、代表者の健康状態。どう考えても、単独での再建は険しい」
言葉は柔らかかった。しかし内容は、なにひとつ柔らかくなかった。
「私どもは、縞々さんの技術と発想に、強い関心を持っています。会社ごと引き取らせていただく形で、縞々さんには研究を続けていただく。それが、私どもからのご提案です」
〔三〕
久我山は、話を続けた。
「縞々さんのご入院中のデータに、非常に興味深い特性が見られました。ロジャー・ペンローズが『皇帝の新しい心』で言及した、非計算的プロセスの典型的な特徴を示しています。意識が通常の計算では再現できない演算を行っている、その証拠とも言えるデータです」
ペンローズ。またその名前が出た。
守屋も同じ理論を使った。しかし守屋と久我山では、同じ言葉が全く違う質感を持っていた。
守屋がペンローズを「分類のための道具」として使うとすれば、久我山はペンローズを「共通言語」として差し出していた。こちらの土俵に引き込むための、精密に選ばれた言語。
ただ、その理論と会社売却がどう繋がるのか、僕には関連性が見えなかった。
邑が質問を投げかけた。
「縞々の意識の特性と、会社の買収が、どう関係するんですか」
「縞々さんのような特性を持つ方の研究環境を、私どもが整えたいということです」と久我山は言った。「会社という器よりも、もっと大きな器で」
説明になっていないことは、わかっていた。
もともと僕はM&Aに活路を見出そうとしていた。初対面にもかかわらず、話は深いところまで進んでいった。久我山の話し方が、そういう速度を自然に作り出していた。
〔四〕
邑が口を開いた。
「少し確認させてください」
声は静かだった。しかし芯に何かが通っている声だった。
「会社の買収条件として、具体的に何をお求めですか」
久我山が資料を取り出した。シンプルな一枚の紙。数字と、条件の箇条書き。
邑はそれを受け取り、黙って読んだ。
少し間があった。
「鴨川の不動産も、含まれていますね」
久我山が頷いた。
「会社の負債を含めた総合的な買収という形になりますので、担保物件として」
邑は書類をテーブルに戻した。
「夫の会社の整理については、私も一緒に考えてきました」
と邑は言った。
「清算という選択肢も含めて。ただ、M&Aについては慎重に考えなければなりません。この種の提案には、残念ながら、詐欺に近いものも存在します」
「もちろんです。デューデリジェンスの機会は十分に——」
「鴨川の家は」と邑は遮った。
「夫の母が遺した家です。以前にも、別の方から担保にするよう求められました。私たちは断りました」
久我山が邑を見た。
微笑みが、わずかに調整された。相手を再評価するときの、瞬時の計算が、目の奥に見えた。
「今担保に入っているのならわかりますがなぜ、その家が条件に入っているんですか」と邑は続けた。
「会社の負債額と、不動産の評価額を考えれば、必須の条件とは思えません」
久我山は答えた。
「縞々さんの研究拠点として、鴨川の環境が最適だと判断しています。買収後も、縞々さんにそこで研究を続けていただく形を想定しています」
説明として成立していた。しかし邑の顔は、それで納得していなかった。
理由はわからない。しかし、わからないことが、理由だった。
〔五〕
久我山は、一時間ほどで立ち上がった。
「今日のところはこれにて。ぜひご検討をお願いできれば」
「またご連絡いたします」
玄関へ向かいながら、久我山は一度だけ振り返った。
棚の上の「しろん」の作品を、一瞬だけ見た。視線がそこに触れて、離れた。
そして僕を見た。
「縞々さん」と久我山は言った。
「選択肢は、思っているより少ないですよ。それだけは、お伝えしておきます」
ドアが閉まった。
居間に、邑と僕だけが残った。
廊下の奥で、夏逢の気配が動いた。部屋に入ってこようとして、止まった。
邑がテーブルの上の名刺を、裏返した。
それだけだった。
〔六〕
夕食を終えて、片付けをしていた八時過ぎに、インターホンがまた鳴った。
モニターを見た。
守屋だった。
グレーのセットアップ。タブレットと、ファイルを抱えていた。一人だった。
邑が僕の隣に来て、モニターを見た。
「今日は立て続けよね」と邑は言った。感情のない声だった。
「一緒に聞くね」と邑は言った。
守屋は居間には入らなかった。玄関先で、立ったまま話した。
「助成金継続のための現況確認です。ヒアリングが必要でして」
「今日でなければなりませんか」
「できれば今夜中に」
半ば強引だった。しかし守屋の強引さには、久我山の強引さとは違う質感があった。
久我山が親しみやすさで侵食してくるとすれば、守屋は制度の重さで押してくる。どちらも断りにくい。ただ、断りにくい理由が違う。
守屋がファイルを開いた。
「いくつかの過去事例をご覧いただきたいのですが」
ファイルの中には、匿名化された事例資料が並んでいた。脳波データ。意識の特異点を持つとされた人物たちの記録。思わせぶりな構成だった。ページをめくるたびに、何かを問いかけてくるような資料だった。
「心当たりはありますか」
「ありません」と僕は言った。
守屋の目が、微かに動いた。本当か嘘かを測ろうとしている。しかし測れなかったはずだ。
本当か嘘か、僕自身にも、よくわからなかったから。
三十分後、守屋は帰った。
玄関のドアを閉めて、邑と二人でしばらく黙って立っていた。
今日だけで、二度。
違う組織が、違う入り口から、同じ場所に来た。
どちらも「あなたのために」という顔をして。どちらも、こちらの返答など、最初から織り込み済みのような顔をして。
「お風呂、沸いてる」と邑が言った。
廊下の奥で、夏逢の部屋の明かりがついていた。
【#09 レゾナンス・ワーク】
親切な顔をして扉を叩いた人の中に、入り口だったと気づいた人がいますか。
あるいは、親切と入り口は同時に本物だったことがありますか。その瞬間をひとつだけ言葉にしてください。
それが第9のスクリプトになります。
──次回
第10回「不動の肉体、流転の魂――やさしい義体」へ続く。




