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第10話 不動の肉体、流転の魂 ーー やさしい義体

〔一〕


天井を、ずっと見ていた。


ICUの天井は、病院棟の一般病棟より少し低かった。照明の色温度は、おそらく六千五百ケルビン。蛍光灯の白が、人工的に均一で、影を作らなかった。


最初の3ヶ月もの間、その天井だけが僕の世界だった。


体は動かなかった。指も、膝も、首も。目だけが動いた。だから天井を見ていた。見るしか、できなかった。


不思議と、考えることだけは止まらなかった。


むしろ、体が止まっているぶん、考えることが加速した。出力ポートを失った意識が、内側で渦を巻き続けた。眠ると夢を見た。目を覚ますと天井があった。夢と天井の間で、記憶と現在が溶け合って、どちらがどちらかわからなくなる瞬間があった。


それが、今もまだ続いている気がする。


守屋の話を聞いているとき。久我山の名刺を見るとき。


あの天井が、視野の隅にある。






〔二〕


会社のことを、あの天井の下で何度も考えた。


失敗の輪郭は、ずっと前から見えていた。


最初の三年は良かった。若い開発者たちと走り、ゲームエンジンの試作を重ね、助成金を取り、手応えがあった。しかし四年目から、ずれが生じ始めた。


市場の読み違いが、最初の亀裂だった。


ゲームエンジンの需要は確かにあった。しかし僕が目指した「虚数的なバラツキを持つ世界生成」という方向性は、業界の主流とは少しずれていた。少し、だと思っていた。しかしその少しが、資金繰りの上では致命的な距離になった。


判断が遅かった。


ピボットするタイミングが、二年遅かった。数字が悪化しても、「この技術には価値がある」という確信が、方向転換を遅らせた。確信は正しかったかもしれない。しかし確信が正しくても、キャッシュが尽きれば終わる。


それを、わかっていた。


わかっていたのに、動かなかった。


あの天井の下で、その事実を何度も言葉にした。声は出なかった。しかし脳の中で、何度も言った。判断が遅かった。動くのが遅かった。


自分を責めることに、不思議と飽きなかった。飽きないということは、まだ終わっていないということだと思った。






〔三〕


従業員のことも、考えた。


最後まで残ってくれた六人の顔を、天井に映した。


感謝している。本当に。あの状況で、給与の遅配を一度経験しながら、それでも残ってくれた。彼らの仕事への誠実さを、僕は今も尊敬している。


しかし。


しかし、と思うことが、あった。


あの最後の一年、僕が求めていたものを、彼らは理解しようとしなかった。「虚数的なバラツキ」の概念を、何度説明しても、実装レベルで噛み合わなかった。技術的な問題ではなかった。哲学的な問題だった。僕が見えているものが、彼らには見えなかった。


それは彼らの責任ではない。


そうわかっていながら、天井を見ながら、静かに腹が立っていた。


なぜ、もう少し踏み込んでくれなかったのか。なぜ、「わかりません」で止まったのか。プロとして、もう一歩先を考えてほしかった。そのくらいの期待は、雇用した側として、持っていいはずだった。


不当な怒りだと、自分でわかっていた。


しかし不当な怒りというものは、わかっていても消えない。消えないまま、感謝と並走する。それが人間というものなのかもしれなかった。


感謝している。腹も立っている。


その両方が、同時に本当だった。






〔四〕


邑のことを考えると、別の種類の重さが来た。


怒りではなかった。負い目だった。


結婚してから二十年。僕はずっと、会社のことを最優先にしてきた。家にいても、頭は仕事だった。夏逢が小さかった頃、どれだけの場面を見逃したか。邑が一人で抱えていたものを、どれだけ見えていなかったか。


言えなかったことが、たくさんあった。


MAエージェントに相談していたことも、邑には言えなかった。心配させたくなかった。しかし心配させたくないという気持ちは、半分は本当で、半分は自分が弱さを見せたくないという意地だった。


「しろん」のことを、なかなか言い出せなかったのも、同じだった。


陶芸を始めたことは話した。しかし工房に名前をつけて、SNSで発信していることは、言いそびれ続けた。言いそびれた理由を、正直に言えば、恥ずかしかった。元IT会社の経営者が、陶芸の写真をSNSに上げている。その姿を、邑にどう見られるか、怖かった。


夏逢が名前をつけてくれた夜、邑も隣にいた。


邑は「しろん」という名前を聞いて、何も言わなかった。しばらくして、「いい名前ね」とだけ言った。


その「いい名前ね」の中に、どれだけのことが入っていたか。


天井を見ながら、僕はそれを何度も考えた。






〔五〕


ICUの、ある夜のことを思い出す。


消灯後の病室。モニターの光だけが、天井をうっすら照らしていた。


体が動かない状態が、何日も続いた後、ある感覚が来た。


渇き、ではなかった。渇きの向こう側にある、何か別のものだった。


自分の体が、自分の言うことを聞かない。神経が命令を受け取らない。筋肉が応答しない。その状態が続く中で、ふと思った。


傷ついても、戻ってくる体があればいい。


壊れても、修復する筋肉があればいい。


自分の意志を受け取って、柔らかく、しかし確かに動いてくれる何かがあればいい。




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それは最初、自分のための夢想だった。動けない自分が、動ける自分を想像する、ただの白昼夢。


しかし夢想は、ある瞬間に質が変わった。


ミミズのことを、なぜかそのとき思った。ミミズは切断されても再生する。柔らかい体で、土の中を動く。傷ついても、戻ってくる。その組織を素材にすれば。その構造を模倣すれば。


廃棄される雑魚が出汁になって、出汁の滋養が体に入って、体が動き始める。その循環と、義体の構想が、ICUの天井の下で、音もなく繋がった。


バイオリアクター。やさしい義体。ラーメン一杯から始まる循環。


名前はまだなかった。しかし輪郭は、あの夜に生まれた。


動けない体の中で、動き続ける構想だけが、静かに育っていた。




画像





〔六〕


守屋のことを考える。


久我山のことを考える。


二人は、それぞれ別の組織から来た。別の目的を持っている。しかし両方が、鴨川の家を要求した。両方が、僕の意識の特異点に関心を持っている。両方が、「あなたのために」という顔をして、扉を叩いた。


僕は何をすべきか。


会社を売るべきか。売らないべきか。守屋の助成金継続に応じるべきか。応じないべきか。鴨川の家を守るために、何ができるのか。


ICUの天井を見ていた頃、僕は答えを持っていなかった。


今も、持っていない。


ただ、あの夜に生まれた構想だけが、まだ消えていない。


動けない体の中で育った、やさしい義体の夢が。廃棄されるものが続きになる、という確信が。


それが守屋の分析格子を通過するかどうか、知らない。久我山の器に収まるかどうか、知らない。


ただ、確かなことが一つある。


あの天井の下で生まれたものは、守屋のタブレットにも、久我山の白い名刺にも、記録されていない。


それが、どこへ向かうのか。


まだ、わからない。






【#10 レゾナンス・ワーク】


動けない時間の中で、それでも止まらなかった思考がありますか。




声にも、言葉にも、数字にもならないまま、今も育ち続けているもの。ひとつだけ言葉にしてください。




それが第10のスクリプトになります。




──次回




第11回「観測者 ――裏側の輪郭」へ続く。

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