第11話 観測者 ―― 裏側の輪郭
暖簾をくぐったのは、特に理由があったわけではない。
気がついたら入っていた、というのが正確だ。
いつもの帰り道、いつもの角を曲がって、今日は足が止まらなかった。それだけのことだ。
カウンターに座って、水を受け取って、メニューを開いた。何度来ても、このラーメン屋のメニューは多い。醤油、塩、味噌、つけ麺、まぜそば、季節の一杯。
手書きで増え続けているらしく、端のほうの字が小さくなっている。
いつも醤油を頼む。たぶん今日も醤油を頼む。
それでもメニューを開くのは、習慣だった。
隣に人が座った。
気配で分かった。カウンターの端から二番目、僕の隣。店は半分ほど埋まっていたから、別の席もあったはずだが、そこを選んだ。
視界の端に、外国人の男が映った。
五十代だろうか。目立たない服装、目立たない顔。メニューを手に取って、真剣に見ていた。眉が少し寄っていた。何かを解読しようとしている人間の顔だった。
しばらくして、男は顔を上げた。
左を見て、右を見て、少しキョロキョロした。
それから、僕を見た。
「すみません」と男は言った。日本語だった。丁寧な、ゆっくりとした日本語だった。
「ここのおすすめは、どれですか」
「醤油が、無難だと思います」
「醤油」と男は繰り返した。メニューの中から醤油の文字を探している。
「一番上です。左の列の」
「ああ」男は頷いた。「ありがとうございます」
それだけだった。
男はメニューを閉じて、醤油ラーメンを注文した。
ラーメンが来た。
二人分、ほぼ同時に出てきた。
男は丼を両手で少し持ち上げて、湯気を顔の近くまで寄せた。目を細めた。それから静かに、しかし迷いなく箸を取った。
僕も食べ始めた。
醤油のスープが、今日は少し濃い気がした。寒いからかもしれない。体が塩を欲しがっている。
隣から、音がした。
「おー」
男の声だった。小さい声だったが、カウンターの近さで、はっきり聞こえた。独り言だった。誰かに言っているのではなく、体から漏れた音だった。
僕はちらりと横を見た。男はスープを一口飲んで、また麺をすすっていた。
「うん、おいしい」
今度は少し確認するような声だった。自分の感覚を点検しているような。
僕は前を向いた。
自分のラーメンを食べた。チャーシューが柔らかかった。
しばらくして、また聞こえた。
「あー」
今度は息に近かった。満足が、体の奥から出てくる音。
笑いそうになった。笑わなかったが、口の端が少し動いた。悪い客ではない、と思った。うまいものをうまいと言える人間は、信用できる。
半分ほど食べたところで、男はスープを飲んだ。
ゆっくり、丁寧に。
それから、静かに丼を置いた。
少しの間、何も言わなかった。
僕は残りの麺を箸でまとめた。
一口でいける量に整えた。持ち上げかけた、そのとき。
「……夢のよう」
男が言った。
日本語だった。でも今までの丁寧な日本語とは、少し違った。
もっと内側から出てきた言葉だった。翻訳した言葉ではなく、そのまま出てきた言葉だった。
僕の箸が、止まった。
麺が、箸の先でゆれた。
男は独り言のつもりだったのかもしれない。でも僕には聞こえた。聞こえてしまった。
男が、僕のほうを向いた。
目が合った。男は少し照れたように、でもほとんど動じずに言った。
「失礼しました。つい」
「いえ」と僕は言った。
「おすすめの通りでした」
「そうですか」
「ええ」男はもう一度スープを飲んだ。
「こういう味は、どこへ行っても、ないんです。東京にしか」
「チェーン店じゃないので」
「そういうことじゃなくて」と男は言った。
穏やかに、しかしはっきり。
「この感じが、です。食べているときの、内側の感じが」
僕は男を見た。
男はカウンターの向こうを見ていた。湯気を。鍋を。何でもない厨房の風景を、静かに見ていた。
「夢を見ますか」と男は言った。
僕の箸が、まだ止まっていた。
麺が、少し伸びているかもしれなかった。どうでもよかった。
「夢、というのは」と僕は言った。
「眠っているときの」
「いいえ」男はスープを置いた。
「起きているのに、どこか別の場所にいるような」
カウンターの向こうで、鍋が鳴っていた。誰かが入ってきて、奥のテーブルに座った。店主が「いらっしゃい」と言った。
僕はその声を、遠くで聞いた。
男を見た。男は僕を見ていなかった。
圧をかけていなかった。
ただ、自分の丼の縁を、静かに見ていた。
答えを待っているのか、待っていないのか、判断できなかった。
「……たまに」
声が出た。
自分でも驚いた。
守屋に対しては「やめてください」しか言えなかった。この男に対しては、たまに、と言った。なぜかは分からなかった。
男は僕を見た。
頷いた。責めるでも、驚くでも、喜ぶでもなかった。ただ、知っていた、というような頷き方だった。
「私もです」と男は言った。
それだけだった。
それだけ言って、また丼に向かった。残りのスープを、静かに飲んだ。
僕も食べた。
止まっていた箸を動かして、伸びかけた麺をすすった。不思議と、まずくなっていなかった。
二人とも、しばらく黙って食べた。
沈黙が、重くなかった。
それが一番、僕には不思議だった。
守屋との沈黙は、いつも何かが詰まっていた。この男との沈黙には、何も詰まっていなかった。ただ、ラーメン屋の音だけがあった。
先に食べ終わったのは、男だった。
箸を置いて、丼を少し前に押した。それから財布を取り出して、中の札を確認した。急がず、かといって、もたつかず。自分のペースで、自分の分だけ。
僕のほうは、見なかった。
男はカウンターの向こうの店主に、自席から声をかけた。
「ごちそうさまでした。領収書をお願いします」
店主が「はい」と言って、小さな伝票を手に取った。
「宛名はどうします?」
男は少し微笑んだ。
「富士ロッジ、で」
間があった。
「富士山の富士に、ロッジ、で、お願いします」
店主が「はい、富士ロッジ様ですね」と繰り返しながら書いた。
男は立ち上がった。
コートを着た。僕のほうを向いて、軽く頭を下げた。
「おすすめ、ありがとうございました」
「いえ」と僕は言った。
男は暖簾をくぐって、出て行った。
僕はしばらく、残りのスープを見ていた。
富士ロッジ。
聞いたことのない名前だった。富士山の富士に、ロッジ。男がそう区切って言ったのは、店主のためだったはずだ。
でも僕には、まるで自分に向かって言ったように聞こえた。
名前も、聞かなかった。
聞けなかったのではなく、気づいたら男はいなかった。それだけのことだ。
でも「夢を見ますか」と言った人間の名前を、なぜ聞かなかったのかを、僕はうまく説明できなかった。
スープを一口飲んだ。
冷めていた。それでも、おいしかった。
路地の角に、いた。
コンビニの袋を提げて、電柱に背を預けている。通りがかりの人間に見えるよう、スマートフォンをいじるふりをしていた。
実際には、Apple Watchの画面を見ていた。
小型カメラの映像が、腕の上で動いている。
カメラはラーメン屋の窓ガラスの端、庇の下に貼ってある。縦一センチ、横二センチ。黒いから、夜は見えない。昼でも、知っている人間しか気づかない。マイクは別で、窓の内側のフレームに吸盤で固定してある。音は骨伝導で拾う。
画質は荒い。でも対象者の顔と、隣に座った男の横顔は、判別できた。
外国人だった。
安藤は最初、観光客だと思った。ラーメン屋に入る外国人観光客は珍しくない。メニューを見て困っていたし、対象者に話しかけたのも、おすすめを聞くためだったようだ。
腕の画面の中で、二人がラーメンを食べている。
話していない。
並んで、黙って、食べている。
外国人の男が時折、声を出した。マイクが拾っていた。「おー」「うん、おいしい」「あー」。Watch越しに、小さく聞こえた。
安藤は口元が少し緩みそうになった。抑えた。
対象者が、横をちらりと見た。見て、また前を向いた。口元が、わずかに動いた。
笑いそうになっている、と安藤は思った。
しばらくして、二人が話し始めた。
音声が、不明瞭だった。
店内の鍋の音、食器の音、他の客の声。それらが混ざって、会話が割れていた。断片だけが届いた。
……たまに……
対象者の声だった。何に対して「たまに」と言ったのか、前後が取れなかった。
安藤はイヤホンを押さえた。音量を上げた。上げても、鍋の音が邪魔をした。
外国人の声が、何か言った。
対象者が、少し動きを止めた。箸が、一瞬止まるのがカメラに映った。
安藤はその静止を、記録した。
外国人が先に食べ終わった。
財布を出している。自分の分だけ払うつもりのようだった。安藤は画面を見ながら、対象者と外国人の関係を頭の中で整理しようとした。
接触は偶然に見えた。
外国人が先に座っていて、対象者が隣に来た。会話はおすすめを聞くところから始まった。名刺の交換もない。連絡先を交わす様子もない。
たまに、と対象者は言っていた。
何についての「たまに」なのか。
安藤は音声データを巻き戻す仕草を、Watch上でやってみた。ノイズだけが再生された。
店主の声が、マイクに入ってきた。
こちらは鮮明だった。カウンター越しで、マイクに近い。
「宛名はどうします?」
外国人の声が続いた。
「富士ロッジ、で」
間があった。
「富士山の富士に、ロッジ、で、お願いします」
安藤はその音を、聞いた。
聞こえていた。鮮明に、聞こえていた。
でも安藤の意識は、その三秒前に対象者が示した「静止」に戻っていた。箸が止まった瞬間。あの男が何を言ったときに、対象者の手が止まったのか。それを確認しようと、画面をスクロールしていた。
富士ロッジ、という音は、耳の表面を通り過ぎた。
店主が「はい、富士ロッジ様ですね」と繰り返した。
安藤は顔を上げた。
男が暖簾から出てきた。
コートの襟を立てた、五十代の男だった。
路地に出て、左右を見た。安藤は電柱の影に体を寄せた。男は安藤のほうを見なかった。右に向かって、歩き始めた。
急いでいなかった。
ゆっくり、でも迷いなく歩いた。どこへ行くか知っている人間の歩き方だった。
安藤は数秒、その背中を見た。
追うか、対象者に留まるか。
判断を迷った間に、男は角を曲がった。
安藤は動かなかった。
対象者がまだ店内にいる。ここを離れるわけにはいかない。それが理由だった。それだけが、理由だった。
Watch の画面に目を戻した。
対象者がスープを飲んでいた。一人になっていた。
安藤は音声データのノイズの中から、もう一度「たまに」の前後を拾おうとした。
できなかった。
報告書に何を書くか、考えた。
対象者、ラーメン屋にて外国人男性と接触。会話あり。内容、音声不良により不明瞭。男性は先に退店。接触は偶発的と思われる。
偶発的と思われる、と書きかけて、止まった。
男が先に座っていた。対象者の行きつけの店に、男が先に座っていた。
それだけで偶発的ではない可能性を、排除できない。
でも安藤には、それ以上の根拠がなかった。
接触の性質、判断保留。要継続監視。
そう書くことにした。
守屋に送る前に、もう一度読んだ。
読みながら、どこかに引っかかりを感じた。
何かを聞いた気がした。でも何を聞いたのかが、出てこなかった。
そういうことは、たまにある。
安藤は報告書を送信した。
【#11レゾナンス・ワーク】
見知らぬ人間に、予期せず本当のことを言ってしまったことがありますか。
なぜその人に言えたのか、後から考えても説明できない。その「たまに」の瞬間を、ひとつだけ言葉にしてください。
それが第11のスクリプトになります。
──次回
第12回「女王の涙――枯れゆく虚数の王国」へ続く。




