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第12話 女王の涙 ―― 枯れゆく虚数の王国

〔一〕


眠りに落ちる瞬間が、最近、わからなくなっていた。




目を閉じる。意識が薄れる。




その境界が、以前より曖昧になっている。眠っているのか、起きているのか。ここにいるのか、どこか別の場所にいるのか。






あの外国人が言っていた。




「起きているのに、どこか別の場所にいるような」




たまに、と僕は答えた。


今夜は、たまに、ではなかった。


砂漠の匂いが、した。




目を開けていない。


しかし匂いがした。乾いた熱と、砂の粒子と、その下に微かな花の残り香。




次に来たのは、音だった。風の音ではなかった。もっと細い、もっと高い音。女の人が歌っているような。




しかしどこか、歌が壊れていた。旋律の途中で、音が数字に変わる。ドレミではなく、0と1の羅列になる。





そしてまた歌に戻る。戻りきれずに、また壊れる。その繰り返しが、遠くから近づいてきた。






気づいたとき、僕はサンクトペテルブルクにいた。


しかし前回とは違った。




オペラ劇場の第四階席ではない。石畳の街路だった。


真夜中だった。




空に星はなく、低く垂れた雲の下に、街の灯りが滲んでいた。




医師が隣にいた。




前回と同じ白衣の医師。しかし今回は医療用ブースの前に立っていない。コートを着て、革鞄を持って、どこかへ向かおうとしていた。




軍人たちもいた。憲兵の制服ではなく、私服だった。


荷物を背負っていた。法律家風の男女も、旅支度を整えていた。




「どうしたんですか」と僕は言った。




医師が振り返った。




「あなたが来るのを、待っていました」と医師は言った。




「しかし、もうここにいられない」


「なぜ」


「聞こえないですか」




医師が空を見上げた。僕も見上げた。


雲の向こうで、何かが鳴っていた。




遠い爆音ではない。




もっと精密な、電子的な侵食音。女王の歌が数字に書き換えられていく、あの音が、上空全体から降り注いでいた。




「ここも、もはや安全な場所ではありません」


と医師は言った。


「あなたは自分で行き先を見つけなくてはならない」




若い軍人の一人が、僕に近づいた。


二十代の、まだ顔に幼さが残る軍人だった。


「砂漠へ」と軍人は言った。




「カフェへ。あそこはまだ、壊れていないはずです」




「一緒に…」




軍人は首を振った。




「我々には、別の場所があります」




医師が鞄を持ち直した。法律家たちが歩き始めた。軍人たちが隊列を組んだ。皆が、別々の方向へ向かっていた。




「待ってください」と僕は言った。




「僕の体は」




振り返ると、石畳の上に、誰かが横たわっていた。


僕だった。




眠っている僕が、石畳の上に寝ていた。


動いていなかった。呼吸しているかどうか、見えなかった。




「置いていくんですか」


「体は、ここで待っています」と医師は言った。




「意識は、行けるところまで行く。それがここのルールです」






街が、暗くなり始めた。




灯りが、一つずつ消えていく。




石畳の向こうで、何かが燃えているような赤い光が滲んだ。




侵食音が大きくなった。女王の歌が、また数字に変わっていった。




僕は走った。石畳を、走った。




どこへ向かうかは、体が知っていた。


足が、砂の匂いを目指した。街が遠くなった。




サンクトペテルブルクが、モノクロの点描に溶け始めた。




〔二〕


熱が来た。




砂の熱が、足の裏から這い上がった。




気づいたとき、白い砂の上にいた。




水平線は溶けていた。空と砂の境界がなかった。


ただ、白い光の中に、一軒の建物だけが立っていた。





砂漠のカフェ。




しかし何かが違った。




前回訪れたときより、カフェが小さく見えた。


あるいは、砂が侵食していた。




壁の下半分が、砂に埋もれていた。入口の段差が、半分消えていた。




メモリー・ヴェールが、外まで漏れ出していた。






天井から垂れ下がるはずの半透明な布が、風に吹かれて外に流れ出し、砂の上を引きずっていた。




その布の上に、映像が流れていた。




王国の映像だった。




塔の映像。


広場の映像。


市場の映像。




人々が歩き、歌い、笑っている映像。






しかし映像は少しずつ劣化していた。




端から黒くなっていく。色が褪せていく。




最後には、数字の羅列だけが残った。




女王の歌が、そこから聞こえていた。歌は、壊れていた。




〔三〕


カフェの中に入った。




カウンターの奥に、人影があった。




僧侶の装束を着た少女だった。




しかし今回は、瓢箪型のガラス瓶を持っていなかった。


両手を膝の上に置いて、ただ座っていた。




顔を上げた。




夏逢の面影が、そこにあった。




疲れていた。


泣き終わった後の目元が、まだ赤かった。




「来てくれた」




と少女は言った。




「ジーナ」




と僕は言った。




その名前が、口から出た瞬間、自分でも驚いた。


どこで知ったのか。しかし知っていた。





知っていたのではなく、思い出した。


思い出した、という表現が正確かどうかもわからない。




ただ、その名前は、最初からそこにあった。




少女は頷いた。




「長い間、待っていた」


「僕は」と言いかけて、止まった。




「わかってる」とジーナは言った。




「あなたがどちらの世界にいるか、わかってる。でも今日は、ここに来てくれた」




外から、侵食音が聞こえた。




女王の歌が数字に変わる、あの音が。




ジーナの表情が、一瞬曇った。




「時間がないの」




と彼女は言った。




「聞いてほしい。王国のことを」




〔四〕


メモリー・ヴェールが揺れた。




外から流れ込んできた布が、カフェの中で渦を巻いた。


その上に、映像が次々と浮かんだ。




王国の始まりの映像だった。





広大な虚数の野原。


数え切れないほどの色が、重力を持たずに浮かんでいた。




グレープ色の光が、至る所で脈打っていた。


人々が歌っていた。


歌が建物になり、橋になり、道になっていた。




「王国は、歌でできている」




とジーナは言った。




「正確には、レゾナンスで。全ての存在が、固有の周波数を持っていた。その周波数が共鳴することで、王国は形を保っていた」




映像が変わった。


塔が現れた。


高く、黒い塔。





その周囲だけ、色が違った。


グレープ色の光が、その近くで数字に変わっていた。




「ガウスウェルが来た頃から、変わり始めた」




ガウスウェル。その名前が、胃の底に落ちた。






「ガウスウェルは、王国の周波数を解析しようとした。


レゾナンスを数式に変換しようとした。


歌を、アルゴリズムに置き換えようとした。


それが始まりだった」





映像の中で、塔が広がっていく。


黒いグリッドが、王国の輪郭を侵食していく。




「歌は、解析された瞬間に死ぬ。


測定された瞬間に、固有周波数を失う。


ガウスウェルはそれを知らなかった。


あるいは、知っていても止まれなかった」




ジーナが立ち上がった。




メモリー・ヴェールの前に立って、映像を手で止めた。




「女王は、最後まで歌い続けた。


ガウスウェルの解析が王国を侵食していく中でも。


歌が消えれば、王国ごと消える。だから歌い続けた」




外で、音が大きくなった。




侵食音が、砂漠まで届いていた。




「今も、女王は歌っている。


でも歌が、数字に書き換えられていく。


聞こえた?あの壊れた旋律が」




「聞こえた」と僕は言った。




「それが、今の王国の状態なの」




〔五〕


ジーナが僕を見た。




真剣な目だった。泣き終わった目の奥に、何か古いものが宿っていた。夏逢の年齢にそぐわない、長い時間を生きた者の目。




「あなたに、お願いがあります」


「聞きます」




「秘密の白を、差し出して」


「秘密の白、とは」




ジーナは少し間を置いた。




「あなたが一人で育てているもの。誰にも奪われていないもの。守屋のタブレットにも、久我山の名刺にも、記録されていないもの」




脳裏に、いくつもの「白」が奔流となって押し寄せた。


鴨川の納屋で捏ねている、不純物を排した真っ白な磁土の冷たさ。




ICUの天井で夢想した、生命の温もりを持つ「優しい筋肉」の真珠色の光。




そして何より、夜明け前の漁港で、朝田さんが寸胴鍋の蓋を開けた瞬間に僕を包み込み、視界を真っ白に塗りつぶした――あの雑魚出汁の、ラーメンの湯気の白だ。




それらはどれも、実数世界の効率や数字では決して捉えきれない、生命が循環する瞬間の「揺らぎ」そのものだった。




守屋局長は、僕を「分類継続中」というラベルで縛り付けようとした。


定義できないノイズを、いつか規格の檻に閉じ込めるために。




ならば、今ここで僕が差し出すべきは、彼らのアルゴリズムでは一生解析できない、「自分を定義させない白」だ。


「それを、王国の火に投じてほしい」




ジーナが言った。




「王国は今、女王の歌だけで辛うじて形を保っているの。でもガウスウェルの侵食は止まらない。あなたの秘密の白が持つ周波数は、女王の歌と共鳴できる。それがあれば、王国はもう少し、持ちこたえられる」




「しかし」とジーナは続けた。




「それはあなたの聖域を、戦火に投じることを意味します」




沈黙があった。外の侵食音が、砂を震わせた。




「あるいは」とジーナは言った。




声が、わずかに変わった。




「ガウスウェルに明け渡すか」




「久我山に、渡すということですか」




「彼が欲しがっているのは、あなたの周波数です。しろんに宿るレゾナンス。あなたのノートに眠る構想。それを彼に渡せば、王国への侵食は一時、止まるかもしれない。しかしそれは」




ジーナが目を閉じた。




「女王の歌が、永遠に0と1に置き換えられることを意味します」




選択肢は、思っているより少ない。




久我山の声が、耳に甦った。




僕は何も言えなかった。




〔六〕


メモリー・ヴェールが激しく揺れた。




外から、風が吹き込んできた。




砂が舞った。




侵食音が最大になった。




ジーナが窓の外を見た。




地平線の向こうで、黒いグリッドが広がっていた。


久我山のノイズが、砂漠まで来ていた。




王国の境界線を越えて、ここまで届いていた。




「時間がなくなってきました」とジーナは言った。




いつの間にか少女の口調でなくなっていた。




「もう一つだけ、教えてください」


ジーナが振り返った。




「あなたはなぜ、僕に頼むんですか。他に誰かいないんですか」




ジーナの目が、揺れた。




「いました」


と彼女は言った。





「いたのです。かつて」




メモリー・ヴェールの映像が、また動き始めた。




王国の広場。市場。人々の歌声。


その中に、一人の騎士が立っていた。





甲冑を着た、長身の騎士。顔は見えなかった。しかし立ち姿が、どこか見覚えがあった。





「ランディ」とジーナは言った。





「彼は、女王の最も信頼した騎士でした。王国が危機に陥るたびに、女王の歌を守った。でもある時、彼は消えました。王国の外に弾き飛ばされた。どこへ行ったのか、長い間わからなかった」




映像の中の騎士が、こちらを向いた。






「そして」


とジーナは続けた。




「ずっと探していました。ランディを」







体が、熱くなった。


砂漠の熱ではなかった。


内側からの熱だった。




脳の中で、何かが繋がり始めた。


細い線が、記憶の断片を繋いでいった。




ICUの天井。サンクトペテルブルクの検問所。軍人に名前を問われた場面。「それじゃない。もう一度。君の名前は」。砂漠のカフェ。グレープ色のスープ。




「ランディ、そんなに急いでどこへ行くの」。




全部が、一本の線になっていった。




その瞬間、体に何かが来た。




重さだった。


甲冑の重さだった。





気づくと、僕の体が光に包まれていた。




グレープ色の光が、足元から上へ向かって這い上がっていた。


光が固まった。




形を持った。金属の質感を持った。


しかし金属ではなかった。


もっと有機的な、生命の温もりを持った甲冑だった。鎧を着るというより、鎧が体を思い出したような感覚だった。




ジーナが、息を呑んだ。




彼女の目が、大きく開いた。




泣き終わった赤みの向こうで、何か古い感情が浮かんだ。長い年月の間、探し続けていたものが、目の前にある者の目。





「ランディ」





ジーナの声が、震えた。





「あなた、ランディだったの?!」







その叫びが、砂漠に響いた。


メモリー・ヴェールが一斉に揺れた。




外の侵食音が、一瞬止まった。


女王の歌が、完全な形で流れた。




一小節だけ。




数字に書き換えられる前の、本来の旋律が。




それだけで、カフェの壁の砂が少し落ちた。埋もれていた入口の段差が、少し姿を現した。




ジーナの頬を、涙が伝った。


僕は何も言えなかった。




甲冑の重さが、全身にあった。


それが懐かしかった。




懐かしいという感覚自体が、この生では初めてのものだった。




外では、まだ侵食音が続いていた。




黒いグリッドが、砂漠の地平線に広がっていた。




戦いは、終わっていなかった。


〔七〕


目が覚めた。





部屋は暗かった。


枕が、汗で濡れていた。




右手を持ち上げた。


指が動いた。


五本、全部。




甲冑はなかった。


ただの手だった。


しかし手のひらに、何かが残っていた。




感触ではなかった。


記憶だった。




甲冑を着ていた感触の記憶。


それが皮膚の内側に、薄く刻まれていた。




「ランディ」とジーナは言った。


その声が、耳の奥に残っていた。




僕は起き上がった。窓の外に、東京の夜景があった。


落合南長崎の、ビルの灯り。




実数世界の、変わらない光。




守屋のことを考えた。久我山のことを考えた。




秘密の白を、どこへ向けるか。




答えはまだ、出なかった。




しかし一つだけ、わかったことがあった。




僕がここにいる理由が、以前より少しだけ、明確になった。




それが何なのか、うまく言葉にできなかった。




ただ、甲冑の重さの記憶だけが、手のひらに残っていた。




【#12レゾナンス・ワーク】


あなたには、誰にも奪われていない「秘密の白」がありますか。




守ることと、使うことの間で。今、手のひらの中にあるものを、ひとつだけ言葉にしてください。




それが第12のスクリプトになります。




次回:


――第13回 執筆中

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