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第8話 過去の断片 ―― 密談

〔一〕 その日の深夜。


守屋は九条のフロアへ向かった。




同じビルの、最上階。


自分のフロアから四階上。


エレベーターで四つ分の距離。しかし守屋にとって、そこは別の建物のような場所だった。




局に入って十二年。九条に直接呼ばれたのは、今日で三回目だった。一回目は着任の挨拶。二回目は、三ヶ月前の「根拠不明確」の件。そして今日。




エレベーターの中で、守屋は昨日の自分を思い返した。




廊下の窓の前で立ち止まり、タブレットの黒い画面に映る自分の顔を見た。あの瞬間に感じた、名前のつかない感覚。守屋はそれを、今朝の出勤前に書式へ落とし込もうとして、できなかった。




「分類不能」とは書けない。また差し戻される。 しかし他に書ける言葉がなかった。




エレベーターが止まった。ドアが開いた。守屋は廊下を歩いた。絨毯の色が、下のフロアより少し深かった。それだけで、場所の格が変わる。そういうものだと、守屋は思った。




ドアの前に立った。 ノックをした。




「どうぞ」という声は、穏やかだった。




〔二〕 九条のオフィスは、守屋が想像するよりも静かな部屋だった。




窓が広く、虎ノ門の街が一望できた。




デスクの上には、書類もタブレットも置かれていなかった。代わりに、一鉢の観葉植物と、薄い茶色の陶器の湯飲みがあった。




植物の名前を、守屋は知らなかった。葉の形が独特だった。分類したいと思ったが、情報がなかった。




「座ってください」




九条は立ち上がらなかった。椅子に深く座ったまま、守屋を見ていた。




六十代の前半だろうか。白髪交じりの髪。細い眼鏡。スーツは地味だったが、その地味さが、選び抜かれた結果のように見えた。飾らないことを、徹底的に選んでいる人間の佇まい。




「本日の縞々との面談、お疲れさまでした」


「ありがとうございます。結果については――」




「そのことは後で聞きます」




九条が静かに遮った。しかしその遮り方は、守屋の遮り方とは違った。守屋の遮り方が、機械が余分な入力を切断するようなものだとすれば、九条のそれは、会話の流れを自分の手のひらの上で整えるような、意図を持った柔らかさだった。




「お茶はいりますか」




「結構です」




「そうですか」と九条は言って、自分の湯飲みを一口飲んだ。急ぐ気配が、全くなかった。




守屋はその余白を、どう処理すればいいかわからなかった。九条と向き合うたびに感じる、この処理不能な間合い。九条の思考速度が遅いわけではない。むしろ逆だ。




九条はすでに、この会話の結末を知っている。だから急がない。




「今日はまず、あなたに知っておいてほしいことがあって、お呼びしました」




九条は湯飲みをデスクに戻した。その音が、静かな部屋に小さく響いた。




そしてはじめて、守屋の目を真正面から見た。




〔三〕 「久我山という人物を、知っていますか」




守屋は首を振った。




「米国に本部を置く、民間の認知科学研究機関があります。




ACG――アドバンスド・コグニション・グループ、




深層共鳴数機構。




実態は政府系の特殊部門に近い」




「アメリカ政府、ですか」 「大統領とは別の系列です」




九条は続けた。声の速度は変わらなかった。




「久我山はその東アジア担当統括です。現在、組織内でかなりの上位に位置している。そして今、縞々に関心を持っている」




守屋は九条の言葉を待った。




「私どもと深層共鳴機構の目的は、根本的に異なります」と九条は続けた。




「私どもが、異常値を分類し、管理することを目的とするとすれば」




守屋の中で、昨日の縞々結弦の顔が浮かんだ。あの「わからない」の落ち着き。




「久我山たちは、異常値を採取し、活用することを目的とします」 「採取、とは」 「意識の特異点を持つ人間から、その特性を引き出す。研究目的とも、能力移植とも、文脈によって言い方は変わります」




守屋は黙っていた。




「久我山が直接動いているということは」と九条は続けた。「縞々が、他の人間には任せられない案件だということです」




あの波形が特異であることは確かだ。しかし全世界的な組織の幹部が、自ら出向くほどの理由が、守屋には測れなかった。




「理解しなくていい」




九条は守屋を見透かすように言った。




「縞々への監視に、久我山の動きを記録する要素を追加する。縞々自身が私どもの管理下にある人物であることを、久我山に示し続けること。それだけでいい」




何をすれば牽制になり、何をすれば越権になるのか。境界線が、意図的に示されていなかった。




守屋はそれを確認しなかった。九条に「境界線はどこですか」と聞ける人間が、この組織に何人いるか、守屋は知っていた。




〔四〕 「もう一つ」と九条は言った。




湯飲みを持ち上げ、また一口飲んだ。その動作の中に、会話の重心が移動する気配があった。




「桐島という名前を、聞いたことはありますか」




守屋は記憶の中を探した。 「……ありません」




九条は頷いた。その頷き方が、守屋が知らないことを初めから知っていたような、静かな頷き方だった。




「先生の名です」




一言だけ言って、九条は窓の外を見た。虎ノ門の街並みの向こう、東京湾の方角に目をやりながら、少し間を置いた。




「先生は」と九条は続けた。




「私がこれまで出会った人間の中で、唯一、私の理解の外にいる方です」




守屋は、その言葉の意味を即座に処理できなかった。




九条の理解の外。それがどういう状態を指すのか、守屋には想像がつかなかった。




九条は守屋の知る限り、いかなる問題の前でも停止しない人間だった。「解けない問題は存在しない」という確信を、全身から放っている人間だった。




その九条が、理解できないと言っている。




「どういう、方なのですか」




九条は守屋の方を向いた。珍しく、答えを考えている顔をした。




しばらく、沈黙があった。




「うまく説明できません」と九条は言った。




守屋には、最も驚くべき言葉だった。九条が「うまく説明できません」と言うのを、守屋は初めて聞いた。




「論理で到達できない場所に、先生は既にいる。私はそれを観察することしかできない。理解しようとするたびに、理解という行為が間違いなのだと気づく」




九条が微笑んだ。




その微笑みが、守屋には奇妙に見えた。九条が笑うとき、それは通常、問題が解けた瞬間の笑みだ。しかし今の笑みは、違った。解けない問題の前に立ちながら、それを愉しんでいるような笑みだった。




「桐島先生は、縞々の件をご存知なのですか」 九条は答えなかった。




「先生は、感知しておられる。データで把握しているのではなく」




感知する、という動詞が、守屋の中でうまく定着しなかった。




「久我山と桐島先生の関連はあるのでしょうか」




九条の目が、わずかに変わった。




「先生の原理と、久我山の原理は、根本的に相容れない」と九条は言った。「一方が共存を選ぶとすれば、他方は掌握を選ぶ。縞々を巡る争いは、その二つの原理の衝突でもある」




守屋には、全体図が全く見えなかった。しかし輪郭だけは、ぼんやりと浮かんできた。




〔五〕 「縞々への監視体制を、強化してください」




九条が立ち上がった。面談の終わりを示す動作だった。しかし声のトーンは変わらなかった。立っていても座っていても、九条の重心は動かない。




「安藤のチームに、追加の人員をお願いします。久我山側が動いているとすれば、現状の体制では限界があります」 「承知しました」 「それから」と九条は言った。




守屋がドアに向かいかけたところで、声がかかった。振り返ると、九条は再び窓の外を見ていた。守屋の方を向いていなかった。




「昨日の面談で、縞々はどんな様子でしたか」 「……淡々としていました。動揺した様子は見られませんでした」




九条は何も言わなかった。窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。




その沈黙が長くなったとき、九条は小さく、独り言のように言った。




「面白いですね」




守屋には、それが誰に向けた言葉なのか、わからなかった。




〔六〕 オフィスに戻り、守屋は安藤に電話した。




「縞々の監視に人員を追加してほしい。まず三名だ」




安藤は短く「了解です」と言ってから、続けた。




「田村、西崎、片桐でよろしいでしょうか。田村は尾行専門、西崎は通信傍受、片桐は接触判断が得意です」 「それで頼む。さらに三名、別の系統から追加する。九条さまのご指名だ。至急対応。ただし縞々への接触は禁止。記録と報告に徹せよと厳命」 「わかりました」




電話を切った。




デスクに座り、守屋は今日の記録を開いた。


久我山。深層共鳴機構。


桐島。




三つの言葉を、備考欄に入力した。しかし入力しながら、守屋は気づいた。




これらの言葉を、既存のどの分類項目にも当てはめることができない。




久我山は脅威か。競合組織か。桐島は何者か。九条の師、という定義は、組織図のどこに入るのか。「論理で到達できない場所に既にいる」という状態は、どのカテゴリに属するのか。




また「分類不能」だった。




今度は、縞々結弦のデータではなく、守屋自身の状況報告書の中で。




守屋はしばらく画面を見ていた。




自分と久我山は、何が違うのか。




どちらも意識の異常値を追っている。どちらも縞々結弦に近づこうとしている。違いは目的だ、と守屋は思った。管理と採取。しかしその境界線は、外から見てどれだけ明確に見えるのか。




久我山の目に、守屋はどう映っているのか。 もしかすると、同じ種類の人間に見えているかもしれない。




そして桐島は。




桐島の目に、守屋はどう映っているのか。「論理で到達できない場所に既にいる」人間の目から見たとき、論理によって分類しようとする守屋という存在は、久我山と何が違うのか。




どちらも、触れてはいけないものに触れようとしている存在に見えるかもしれない。




ただし触れ方が違う。久我山は奪うために触れ、守屋は定義するために触れる。どちらも、触れること自体をやめようとはしない。




その考えを、守屋は打ち消さなかった。打ち消せなかった。




画面の備考欄に、守屋は最後にもう一行だけ追加した。




「分類継続中」。




それが今の守屋に書ける、最も正直な言葉だった。




【#08 レゾナンス・ワーク】


あなた自身は、どの原理で動いていますか。




管理する人。採取する人。感知する人。解くことを快楽とする人。自分がどれに近いか、ひとつだけ正直に言葉にしてください。




それが第8のスクリプトになります。




──次回 第9回「黒いグリッドの侵食――実数世界の正論」へ続く。

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