第7話 規格の外側、深淵の内側 ―― 監視する目
〔一〕
封書が届いたのは、月曜日の朝だった。
差出人は「文部科学省 中央理数統制局」。開封すると、一枚の紙が入っていた。
日時と住所と、「ご来局のお願い」という表題。要請、ではなく、お願い、という言葉が使われていた。その丁寧さが、かえって断れないことを意味していた。
邑が封書を読み、黙った。
「国からの呼び出しね」
「うん」
「行かない、とはできないのね」
「助成金の件をまたぶり返されないように。とにかく行かないとならない」
邑は何も言わなかった。
ただ封書を丁寧に折り直して、テーブルに置いた。
その動作に、言葉にならない何かが込められていた。
指定された日の朝、僕は一人で家を出た。
〔二〕
虎ノ門の駅を出ると、高層ビルの谷間に冬の光が切り刻まれていた。
指定されたビルに入ると、すぐに違和感があった。
エントランスから続く巨大なサイネージ。
壁面を埋め尽くす数字と図形の奔流。
グラフィカルすぎる。
動きが速すぎる。
何を伝えようとしているのか、立ち止まって考えても、直感が追いつかない。
僕はシステムエンジニアだ。UIデザインの善し悪しは、職業的に判断できる。
これは、人のためのデザインではない。
情報の密度が、人間の処理速度を意図的に超えている。見る者を圧倒し、思考を止めるために設計されている。
エレベーターを待ちながら、肌寒い感覚が膨らんだ。
砂漠のカフェを思った。
あの乾いた熱と、静寂と、メモリー・ヴェールの揺らぎ。ここはその対極にある。
ここには揺らぎがない。
全てが固定され、定義され、処理されている。
エレベーターのドアが開いた。
僕は乗り込んだ。動じない、と決めていた。
〔三〕
守屋が待っていた部屋は、窓のない会議室だった。
テーブルを挟んで、僕と守屋。
テーブルの上には、タブレットと、分厚いファイル。部屋の温度は、体温より二度ほど低かった。
「お越しいただき、ありがとうございます」
守屋の口調は穏やかだった。穏やかすぎて、温度がなかった。
「今日お伺いしたいのは」と守屋は続けた。
「先日ご覧いただいた脳波データについてです。ICUにご入院されていた夜、記録された、あの空白の周波数帯域について」
タブレットに、見覚えのある波形が映し出された。
「縞々さんが心停止から蘇生されるまでの時間、意識はどこにありましたか。何を、見ていましたか」
「…」
「臨死体験として、何らかの映像や感覚があったのではないでしょうか。断片で構いません。覚えていることを断片で、それを詳しくお聞かせいただければ、助成金の継続審査において、有利な判断材料となる可能性があります」
助成金、という言葉が空気を変えた。
守屋は餌を置いた。僕はそれを見た。
見たことは、見なかったことにしなかった。
「わかりません」と、言った。
あのサンクトペテルブルクのことを、守屋に話すつもりはなかった。
砂漠のカフェのことも。
ヒーラー装束の少女のことも。
あれは僕の中で起きたことで、誰かに解析させるために存在したのではない。
守屋が言葉を変えた。
「少し、私どもの組織についてご説明します」
タブレットを操作し、画面が切り替わった。CRCBのロゴと、簡潔な組織概要。
「中央理数統制局は、脳と意識の関連領域を独自のアルゴリズムで分析・評価する部門です。脳科学、心理学、哲学の三軸から対象データを掘り下げます」
守屋はタブレットをテーブルに置き、続けた。
「私どもの基本的な立場をお伝えすると、脳は単なる情報処理装置ではないと考えています。より正確には、外部からの波動、ひらめき、感覚といったものを受け取る、アンテナあるいは翻訳機として機能している可能性がある。頭頂葉は超越体験と関連し、前頭前野は瞑想によって活性化される。潜在能力の解放には、脳そのものの構造的な変容が伴う」
淡々と、しかし正確に、守屋は言葉を積み上げた。
「ただし同時に、脳には変化を拒む防衛反応があります。現状維持のシステムが、スピリチュアルな成長や新しいチャレンジを妨げることがある。私どもはこれを『脳のバグ』と定義し、その発生パターンを分析しています」
僕は聞いていた。
内容は、それ自体は理解できた。
スピリチュアルと脳科学を接続しようとする試みは、エンジニアとしても見聞きしたことがある領域だ。
しかし守屋の口から出てくると、何かが違った。
温度がなかった。
「アンテナ」も「祈り」も「超越体験」も、守屋の言葉の中では等しくデータ項目として並んでいた。
魂の話を、仕様書を読むように喋っている。
「ロジャー・ペンローズは、著書『皇帝の新しい心』の中で、人間の意識は計算不可能なプロセスを含むと主張しました。チューリング・マシンで再現できない何かが、脳の中に起きている、と。縞々さんのデータは、その仮説と整合性のある特異点を示しています。私どもが解析したいのは、まさにその領域です」
僕はペンローズの名前を知っていた。しかし言葉を飲み込んだ。説明しても、意味がない。
「わからない、とは」
「意識が混濁していた記憶はあります…そういう体験をしたのか、何かを見たのかよくわかりません。」
守屋が一拍置いた。
「説明できないのか、説明しないのか、どちらですか」
「…わかりません」
守屋の目が、微かに動いた。畳み掛けようとして、止まった。
その空白の中で、僕は守屋の論理が空転しているのを感じた。
嘘でも本当でもない。
定義できない回答。
守屋のタブレットに、それを記録する欄はない。
〔四〕
隣室では、九条が見ていた。
マジックミラーの向こうで、腕を組んだまま、二人のやりとりを追っていた。表情は動かない。
ただ、守屋が「わかりません」という返答の前で止まるたびに、九条の視線がわずかに細くなった。
しばらくして、九条は独り言のように言った。
「守屋には、これ以上は無理だ」
声を聞いた者は、その部屋にいなかった。
〔五〕
会議室を出た守屋は、廊下の窓の前で立ち止まった。
虎ノ門の街が、灰色の空の下に広がっていた。
レポートを書かなければならない。
今日の尋問の記録。
縞々結弦の発言内容。
脳波データとの照合結果。
それを、所定の書式に落とし込む。守屋はそれを、これまで何百回とやってきた。
しかし今日は、書式の第一項目が頭に浮かんだ瞬間に、手が止まった。「被験者の証言内容」。
何を書けばいい。
「わかりません」。それだけだ。被験者は、それしか言わなかった。嘘をついている可能性はある。しかし嘘の証拠もない。
「わかりません」という言葉は、分析格子のどこにも引っかからない。すり抜けていく。摩擦なく、抵抗なく。
守屋は窓ガラスに視線を向けた。自分の顔が薄く反射していた。
三ヶ月前のことを思い出したくなかった。しかし思い出した。
別の被験者。別のデータ。しかし同じ壁。
あの案件でも、守屋は正確に分析した。脳波の異常帯域を測定し、既存の精神医学的分類と照合し、既知のどの項目にも該当しないことを丁寧に論証した。そして結論として書いた。「分類不能」。
それ以外に書ける言葉がなかった。正直に書いた。
レポートは九条のもとへ送られた。翌日、一行だけ返ってきた。
「根拠不明確。再提出のこと」
守屋は三日かけて再提出した。論拠を増やした。引用文献を追加した。統計的な外れ値としての位置づけを補足した。それでも結論は変わらなかった。
「分類不能」。分類できないから、分類不能と書いた。
返ってきた言葉は同じだった。
「根拠が不明確」。
守屋は廊下を一人で歩き始めた。
どこが不明確なのか。守屋には本当にわからなかった。論理の手順を何度辿り直しても、欠落は見つからない。根拠は積み上がっている。
ただ、その根拠が指し示す先が「分類不能」という結論であることが、問題なのだと、守屋はようやくそのとき気づいた。
九条が求めているのは、根拠ではない。
「分類可能」という結論だ。
どんな根拠を積み上げても、結論が「分類不能」である限り、それは「根拠が不明確」として処理される。
なぜなら「分類不能」という結論は、システムの中に受け入れる器がないから。
定義できないものを定義しようとした瞬間に、その試みごと、定義の外に押し出される。
守屋の分析能力は、そこで停止する。
それが「停止問題」だと、守屋は思った。チューリングが証明したこと。あるプログラムが、与えられた入力に対して停止するかどうかを、別のプログラムが判定することはできない。
守屋は今日、結弦にその言葉を使って問いかけた。しかし今この廊下で、停止しているのは守屋自身だった。
縞々結弦の「わからない」が、耳の奥に残っていた。
あの「わからない」は何だったのか。
嘘か。本当か。逃避か。あるいは、本当に、わからないのか。
守屋はどの仮説も棄却できなかった。通常であれば、複数の仮説のうち最も確率の高いものを選択して記録する。
しかし今日に限って、どの仮説にも等しく根拠がなかった。結弦の「わからない」は、守屋の問いに対して何も返さなかった。鏡のように、問い自体を反射させた。
守屋が問いを立てるほど、問いが空洞になっていく。
エレベーターホールの前で、守屋は足を止めた。
タブレットを開いた。あの波形が、まだ画面に残っていた。
分類不能な周波数帯域。
ICUの夜に、縞々結弦の脳が発した、どの既知パターンにも当てはまらない振動。
守屋はこの波形を初めて見たとき、既視感を覚えた。三ヶ月前の案件と同じ形をしていた。いや、それだけではない。もっと前にも、似た波形を見たことがある。
何年前だったか。
守屋が局に入って間もない頃、上司に連れられて見た、ある被験者のデータ。
そのときは「雑音」として処理するよう指示された。守屋は従った。疑問を持たなかった。雑音は雑音だ、と思った。
しかし今、画面の中の波形を見ながら、守屋は初めて考えた。
あれも、雑音ではなかったかもしれない。
その考えを、守屋はすぐに打ち消した。
証拠がない。
根拠がない。
感覚だけで過去の処理を疑うことは、分析者としての瑕疵になる。
守屋はそう自分に言い聞かせた。言い聞かせながら、しかし波形から目を離せなかった。
また「分類不能」と書くのか。
書けば、また差し戻される。
では何と書けばいい。
守屋には、答えが出なかった。
それが、守屋にとって最も異常な事態だった。答えが出ない、という状態を、守屋はこれまで経験したことがなかった。時間をかければ必ず分類できる、という確信が、局に入ってからずっと守屋の背骨だった。
その背骨が、今日初めて、自分の重さに耐えられなくなっているような感覚があった。
タブレットの画面を、指で消した。
波形が消えた。画面が暗くなった。
その黒い画面に、また自分の顔が反射した。
守屋は、その顔をしばらく見た。
分類できない何かが、そこにあった。
〔六〕
オフィスに戻り、守屋は安藤に電話した。
「監視を続けろ。行動範囲が広がるようなら、同行者の記録も」
声は平坦だった。手順通りだった。
電話を切り、デスクに戻った。
夕方、守屋のもとに一本の電話が入った。発信者は、九条の秘書だった。短い用件だった。
「この後、お時間をいただけますか」
それだけだった。
久我山、という名前を守屋が初めて聞いたのは、深夜のことになる。
【#07 レゾナンス・ワーク】
あなたの中に、「わからない」としか答えられないのに、確かに存在するものがありますか。
それは嘘でも逃げでもない。時に、最も正確な答えです。その「わからない」を、ひとつだけ言葉にしてください。
それが第7のスクリプトになります。
──次回
第8回「過去の断片――密談」へ続く。




