第6話 指の生まれる砂浜 ―― 再起動の産声
〔一〕
夢の中で、僕は砂浜を歩いていた。
砂漠ではない。海のある、砂浜だ。
光は白く、水平線は溶けるように霞んでいて、波の音だけが一定のリズムで打ち寄せていた。
自分の足元を見ると、足跡が続いていた。
おかしい、と思った。
足跡に、指がなかった。
かかとと、足の甲の形だけが砂に刻まれていた。
五本の指が消えている。
まるで、設計途中の生き物の痕跡のように。
振り返ると、来た道の足跡が全部そうだった。ずっとそのまま歩いてきたのに、今まで気づかなかった。
しゃがんで、自分の足を見た。
指は、あった。五本、ちゃんとある。
なのに、砂には映らない。
不思議と怖くはなかった。
砂に手のひらをあてた。
温かかった。
こちらの熱を、砂は素直に受け取っていた。
しばらくそうしていると、最初の足跡の縁から、何かが芽吹き始めた。
白い。
土から出てくるときの、植物の白い根に似た何かが、砂の粒を割って出てきた。
ゆっくりと、しかし確実に。指の形をしている。足跡の、消えていた五本の指が、外側から生えてくる。
痛みはなかった。
それはむしろ、水が低いところへ流れるような、抵抗のない必然だった。
最初の足跡が完成した。
次の足跡も。砂浜を振り返ると、来た道の全部で、同じことが起きていた。
白い指が次々と砂から生え、僕が歩いた軌跡を、後から完成させていく。
前を向くと、まだ歩いていない砂浜が続いていた。
そこには何もない。足跡も、指も。
次の一歩を踏み出した。
砂が沈んだ。
足跡が刻まれた。
指のない、不完全な形で。
それでいい、と思った。後から生えてくるのだから。
〔二〕
目が覚めると、鴨川の朝だった。
縁側の外で、鳥が鳴いていた。光が薄く、まだ夜明けの手前だった。
夢の感触が、皮膚に残っていた。あの白い指の、水が流れるような確かさが。
右手を持ち上げた。動いた。五本、全部。半年前より、少しだけ速く。
窓の外に、海は見えない。でも、磯の匂いがした。
朝田さんのスープのことを、思った。
廃棄される雑魚が出汁になって、誰かの体に入っていく。その循環のことを。
〔三〕
その日の午前中、浜辺で朝田さんと会った。
朝田さんは防波堤の上に腰かけて、何も持たずに海を見ていた。珍しかった。いつも何か手仕事をしている人だった。
「網、今日はいいんですか」
「うん。たまにはぼーっとする」
僕も隣に座った。しばらく、二人で水平線を見ていた。
「朝田さん」
「うん」
「雑魚って、どのくらい廃棄されるんですか」
朝田さんが横を向いた。
「値がつかない魚、うーん…重さで言えば、水揚げの三割とか四割とか、平気で出るときあるよ」
「三〜四割」
「もったいないっちゃもったいない。でも売れないから値打ちがない、ってことになってるから」
僕は砂浜を見ていた。夢の中の足跡が、重なった。
「それを分解して、土に戻したら」
朝田さんが少し間を置いた。
「まあ、やってるとこはやってる。微生物を使って肥料にしたり。でも仕事になってないんじゃないかなあ」
「……海のミネラルを分解させて……組織も取り出せたら……」
「……何の話?」
「わからないです。でも何か閃きそうな気がして」
朝田さんは海に向き直った。
「あんたは」と彼は言った。
「病院から出てきた人間の考えることじゃないな」
「……」
「褒めてんだよ?」
「ありがとうございます」
僕は頭を掻いた。
波が来て、引いた。
「捨てられるものが、続きになる」と僕は言った。
うまく言葉にならなかったけれど、朝田さんは何も問い返さなかった。
ただ、防波堤の縁を、指先でゆっくり叩いていた。規則的な、独自のリズムで。
〔四〕
工房に戻って、ノートを開いた。
最初に書いたのは、図ではなく言葉だった。
「廃棄物を資源に変える。エネルギーを取り出す。土に還す。そのサイクルを、鴨川の閉じた系の中で回す」
次に書いたのは、雑魚出汁を使ったラーメン屋の経営計画だった。
ラーメン屋なんてもちろん専門外だが、調べながら店舗経営の骨子をまとめた。エンジニアとして見える輪郭がある。
捨てられた雑魚から出汁を取る。 その出し殻を捨てずに、ミミズに食べさせ分解させる。高機能土壌が生まれる。 有機農家に提供する。プレミアム穀物や野菜が生産される。 その鶏殻、豚骨からも出汁を取り、雑魚出汁と合わせてラーメンを作る。 どうせなら鴨川名産のアワビや伊勢海老、蛤の殻も回収してワームの餌にする。
土地固有の資産の再解釈、再定義……
ペンが、一度止まった。
循環の図を書いた。矢印が何本も出て、また戻ってきた。閉じた系の中で、何も捨てない。
ここまでは見えた。
しかしその先に、もう一段、何かがある気がした。
まだ言葉にならなかった。ミミズの組織のことを、なぜかしきりに考えた。柔らかくて、切れない。傷ついても戻ってくる。その構造が、頭の隅でずっと鳴っていた。
何と繋がるのか。まだわからなかった。
ノートを見直すと、ページが二枚埋まっていた。
「鴨川バイオリアクター ラーメン一杯から始まる循環」
とノートの上部に書いて、少し笑った。
大げさな名前だ。
今の僕には窯と土と、朝田さんのスープしかない。
会社もない。資金もない。
体もまだ、完全ではない。
でも夢の中の足跡が言っていた。
後から指は生えてくる。
不完全なまま、次の一歩を踏み出せばいい。
ノートのページが、埋まっていった。
〔五〕
東京に戻ったのは、翌週のことだった。
落合南長崎のマンションに向かう前に、近くのスーパーに寄った。
邑が頼んだものを買うためだ。
帰り道、マンションの駐車場に差し掛かったとき、一台の車が止まっているのが見えた。
黒い国産セダン。エンジンはかかっていない。
助手席の男が、スマートフォンを見ていた。
すれ違う瞬間、視線は交わらなかった。
男は画面から目を上げなかった。
僕も、袋を持ち直しながら通り過ぎた。
ただの住人だろう、と思った。
駐車場を出てから、安藤は一度だけ振り返った。
縞々結弦の背中が、マンションのエントランスに消えていくのを確認した。
それだけだった。
スマートフォンに短いテキストを打って、送信した。
本日、帰宅確認。接触なし。
〔六〕
邑に荷物を渡しながら、鴨川のことを話した。
朝田さんのスープのこと。工房のこと。
ノートに書いたこと。
邑は台所に立ったまま、黙って聞いていた。
「バイオリアクター、か」
「まだ全然、形じゃないけど」
「でも」と邑は言った。
「あなたが何かに向かってる顔、久しぶりに見た」
それだけ言って、冷蔵庫を開けた。
夏逢がリビングから顔を出した。大学の入学手続きで慌ただしい時期だった。
「パパ、お土産は」
「次回」
「次回って毎回言う」
邑が笑った。
こっちも笑った。
三人で笑っているのがとても良かった。
【第6回 レゾナンス・ワーク】
不完全なまま、次の一歩を踏み出したことがありますか。
指のない足跡でも、歩くことはできる。あなたの中で、まだ完成していないのに、もう動き始めているものを、ひとつだけ言葉にしてください。
それが第6のスクリプトになります。
──次回
第7回「規格の外側、深淵の内側――監視する目」へ続く。




