彼氏
「怖い?」
彼は私の表情から不安を読み取ると、それを拭おうと笑顔を見せた。
彼にそんな顔をさせている自分が嫌で、申し訳なくて、私なんて要らないって捨てられるかと思って、私は首を横に振るのだった。
私を一言で表すと空気。それにつきる。
クラスに存在しているのは分かる。知ってる。でも、私が何か他人に影響を及ぼす訳でもなく、漂うだけ。四十人のうちの一人、それだけの存在。
彼は違う。
クラスをまとめ皆を笑顔にする。けっして頭が良い訳ではないけど、要領が良いから皆に必要とされる。彼が休めば、誰かしら心配する人がいる。
私とは違う。けども、妬みとかそんな愚かな感情を抱いた事はない。だって、彼はそもそも私と生きる世界が違うもの。
同じ高校生。同じ学年。同じクラス。同じ授業。同じでも、私と彼が交わる事はない。けっして。そう、思ってたのだけど、ある日平行線が傾いた。
『ヤマムラさんって、凄いよね。俺、憧れちゃうな』
『え』
時が止まったと思った、蝉が騒ぐ八月の放課後。
手に持っていた教科書は滑り落ちるけども、拾えない程の衝撃にただただ圧倒されるばかりで。その先を紡ぐ言葉が見つからない。
しかし、彼はそれを察してか、説明してくれる。
『掛け持ちでアルバイトしてるし、遠くから通学してるし、授業料も自分で払ってるし……ほんと、俺には真似できない』
クラスメートに見せるような良い笑顔。まさか、私に向けられる日が来ると思わなかった。けども、そこから優しさを感じられる程私は愚かではない。
校則でアルバイトは禁止されてるのに、と。彼は繋げる。
間接的な私への脅し文句だ。でもね、残念ながら私は空気なんですよ、カワセくん。私には商品価値はない。その他大勢の一人、それだけ。
『私はカワセくんの思惑に沿える程の人材ではありませんよ。学校に言おうと、秘密にしようと、構いません』
『えっ』
今度は彼が言葉を詰まらせた。目を白黒させてから、ああと小さく笑った。私がつまらない人間だと分かったのだろう。脅す価値もない、と。
『勘違いしてるよ、ヤマムラさん。俺は純粋にヤマムラを凄いって言っただけで、何かを期待してる訳じゃない……いや、違う。期待してるけども、そう、汚くはないんだよね。でも、下心には変わらないからなあ』
意味が分からない。私は凡人で、彼とは違うからなのか、理解ができない。彼は言葉を探し、思い付いたように吐き出した。
『単刀直入に言うと、俺はヤマムラさんに興味があるんだ』
『アルバイトを秘密にする代わりに、金を寄越せ。そう言いたいのですか?』
『誤解がとけないなあ。つまりはヤマムラさんを性的な目で見てるんだって事』
『は、あ?』
セイテキな目でって、静的な目で? 政敵な目で? いやまさか、性的ではあるまい。『おっぱい触りたい的な性的だから誤解しないでね』おおっと、待って待って待って。思考がついてかない。
『告白ってこうじゃないのかな?』
『……違う、と思いますけど』
『いつもは女の子から告白されて付き合ってたから、よく分からないんだよね』
『も、モテモテ発言ですか』
『ヤキモチ? 大丈夫だよ。元カノは好意なく付き合ってたから。人生で初めて好きになったのはヤマムラさんだから、安心して』
『あー…………』
会話が通じない。私と彼は違う世界に生きていて、交わらない関係性。だった、はずなのだ、なのに何故。頭が痛くなる。マトモな思考が出来ない。彼が、私の事を性的な目で、何で。私よりも好条件で性欲を発散出来るメスはいるのに。
『今日が俺らの交際記念日だね。八月二十八日。タトゥーで背中に入れようかな』
『交際してませんし、全力で止めてください』
彼は愉しげに笑う。けれど、邪悪さは見えない。純粋な想いなのか。私には分からないまま、彼に流され結局は付き合うという形に収まってしまったのだった。
ところが、地味で平凡な私。男性経験はおろか、交際した事もない。何が正しいのか分からないまま、デートという名の会合を重ねる度に彼が本当に私を好いている事と彼の異常さが分かってきた。
『え、この、手錠。何に使うの?』
『ヤマムラさんの手首に付けるためだけども……あ。このメーカー好きじゃなかった?別のも用意してあるけど』
『そうじゃなくて』
初めて彼の家に行って、数分で別の意味でドキドキさせられた。恋愛マニュアル本にも載ってなかったんだけど。もう、心臓が持たないからカワセくん用のマニュアル本が欲しい。
『つけるの、イヤ?』
何よりも嫌なのは、関わりあいのなかったはずの彼をいつの間にか愛している自分がいる事で、彼の望みを全て聞いてしまう事だ。
大丈夫と頷くと彼は嬉しそうに微笑む。それが嬉しくて、私は何度も頷く。
口枷も、目隠しも、野外露出も、放尿も、陰部露出も、緊縛も、盗撮も。彼が喜ぶ顔を見たくて。彼に満足して欲しくて。彼に求められているのが嬉しくて。
そして今。
彼が望んだのは私の小指の爪の切断だった。
「ヤマムラさんの小指を飲みたいんだ。切ってもいい?」
小指がなくなるのは嫌に決まってる。とんでもない位痛いだろうし、小指なしで生きていくのは難しい。彼の欲求のためだけに切り落とすなんて、そんな、いくらなんでも許せない。
と、言えば良いのに。
「左手なら、……良いよ」
「ありがとう。やっぱり俺にはヤマムラさんしかいないよ」
私は頷くのだった。
怖くないと、彼に笑顔を見せると、彼も笑う。
ナイフが小指に当たると、赤い液体が流れた。まだ切れてないのに。先走りみたい。彼と目が合う。怖くない。良いのよ。彼は力を入れて。ぷつぷつ。ぶちぶち。痛くないよ。彼の勃起したアレを見れば満たされる。骨と擦れるナイフの音が、ごつごつ。鈍くて。ああ、口からアワが。汚い嫌われちゃう。あ、あ、あはは。
「っあ、愛してるよ……ヤマムラさん!!」
エスカレートしていく歪んだ彼氏と、許してしまう私の日常。




