第8話 竈
朝靄が、まだ貧民街の路地に残っていた。
尊は井戸の水で顔を洗い、伸びた髭を指でなぞった。ざらりとした感触に、少しだけ眉を寄せる。
寝台の方からは、相変わらず咳が聞こえていた。リオは、母親のために湯を沸かしている。小さな背中が、鍋の前でじっと動かない。
尊は戸口に立ち、路地を眺めた。
洗濯物を干す女。水桶を運ぶ老人。そして裸足で駆けていく子供たち。昨日と変わらない、朝の貧民街だった。
路地の向こう、崩れかけた塀の陰に一人。荷を背負った行商人のような男が、塀にもたれて休んでいる。
尊は《高天眼》を開いたまま、何気なく視線を流した。
体格。蒼の深さ。重心の置き方。
昨日、対岸の草むらの奥にあった、あの静かな蒼と同じ流れだった。
ただ、一つだけ違うことは、男がこちらを見ていたということだ。
塀の陰から、ほんの僅かに顔を覗かせ、尊のいる戸口を窺っている。尊が視線を向けかけると、慌てたように顔を引っ込めた。
下手だ。
昨日の男は、半日近く草むらに伏せて、一度も蒼を乱さなかった。それが今朝は、素人のように顔を覗かせ、慌てて隠れてみせる。同じ人間とは思えないほど、拙い。
尊は、戸口の柱にもたれたまま、しばらく考えた。
「兄ちゃん?」
湯を運んできたリオが、怪訝そうに顔を上げる。
「少し散歩してくる」
リオは疑わしそうに目を細めたが、尊はそれ以上何も言わずに路地へ出た。
***
男は、尊が路地に出るとすぐに動き出した。荷を背負い直し、何事もなかったかのように表通りの方へ歩いていく。
尊は、距離を取って後を追った。
男は市場を抜け、職人街を通り、川沿いの道へと出て、人混みの中を迷いのない足取りで進んでいく。
尊は、男の背中を見ながら歩いた。
そして、半刻ほど経った頃。
おかしい。
男が、振り返らない。
一昨日のトマスは、市場を二周し、道を戻り、店の窓や水桶の水面まで使って、三度も背後を確かめていた。末端の衛兵でさえ、それだけ慎重だった。
それが、この男はどうだ。角を曲がる時に、一度だけ背後を窺った。それきりだ。窓にも、水面にも、目を向けない。
あれほど伏せることに長けた男が、尾行の確認だけは素人並み。
尊は、男の背中の蒼を見た。
肩から背にかけての流れが、張り詰めている。尊が距離を詰めると強張り、離れると僅かに緩む。
尾けられていることを、この男は知っている。知っていて、振り返らない。
振り返れば、尾行に気づいたと示すことになる。気づいた人間なら、撒こうとする。撒こうとすれば、尾行者を連れていけなくなる。
だから、振り返らない。
尊は、歩みを緩めなかった。
ここで追うのをやめれば、気づいたと教えることになる。ならば、最後まで連れていかれてやればいい。
***
男が足を止めたのは、街の東、高台に近い屋敷町だった。
石塀に囲まれた、大きな屋敷が並んでいる。貧民街とは、空気そのものが違った。男は、その中の一軒の裏手へ回った。
使用人用らしい小さな木戸を叩く。少し間があって、木戸が内側から開いた。男は一度だけ周囲を見回し、中へと消える。
尊は、通りの角で足を止めた。
表門に回ってみると、立派な門柱に家紋の刻まれた銅板が掛かっていた。尊には読めない文字だったが、近くを通りかかった水売りに尋ねると、あっさりと答えが返ってきた。
「ああ、そこはベルナー様のお屋敷だよ。街の評議員の」
「評議員?」
「街の政に口を出せる偉い方さ。商会の顔役でもあってな。兄ちゃん、あんまりじろじろ見てると、衛兵を呼ばれるぜ」
水売りは笑いながら去っていった。
尊は、屋敷の塀を見上げた。
監視役が、街の有力者の屋敷へ入っていった。
これをガルドに伝えれば、どうなるか。ガルドは動くだろう。王女の件となれば、評議員の屋敷にも踏み込む理由になる。
だが、もし何も出なかったら。
ベルナーという男が、何も知らなかったら。使用人の一人が、金で木戸を開けただけだったら。
副長が、根拠も薄いまま街の評議員を疑った。それが表沙汰になれば、ガルドの立場は終わる。旅人の言葉など、二度と誰にも信じてもらえなくなる。
敵は、剣を一度も抜かずに、尊の手足を奪える。
それに――。
尊は、屋敷の塀から目を離した。
もし自分が今から詰所へ駆け込めば、誰のもとへ向かうのか。誰に話し、誰が動くのか、分かってしまう。
それを、向こうは見ている。
詰所の中で、誰が尊の味方なのか。
尾行させた理由は、それか。
尊は、静かに息を吐いた。
一昨日のブラフ、昨日の水車小屋。そして今朝の、わざとらしい監視役。
自分は向こうを観察しているつもりで、向こうもずっとこちらを観察している。何を見て、どう動き、誰と繋がっているのか。
人を追えば、向こうが用意した道を歩かされる。その先には、向こうが見せたいものしかない。
尊は、屋敷に背を向けた。
詰所には、向かわなかった。
***
リオの家へ戻ると、リオが戸口で待ち構えていた。
「散歩、長すぎだろ。どこ行ってたんだよ」
尊は、土間に腰を下ろした。
「昨日の見張りを見つけた」
「え!! で、どうなったの?」
「尾けた。評議員の屋敷に入っていった」
「評議員……って、すげえ偉い人じゃん! じゃあ、そいつが黒幕――」
「違うだろうな」
リオが固まった。
「また、それかよ」
「見張りは、わざと見つかった。わざと俺に尾けさせて、わざとあの屋敷に入った」
「なんで分かるんだよ」
「昨日は、半日伏せて一度も気配を乱さなかった男が、今朝は素人みたいに顔を出した。尾けられていると分かっているのに、一度も振り返らなかった」
リオは、しばらく黙って考えていた。
「じゃあ、その屋敷は関係ないの?」
「分からない。関係あるかもしれないし、ないかもしれない」
尊は、壁にもたれた。
「だが、向こうが俺に見せたかった場所だということだけは、確かだ」
「ずるいな、そいつ」
リオが、ぽつりと呟いた。
「全部、嘘ばっかりじゃん。目撃した奴も、噂も、見張りも」
「嘘じゃない」
「は?」
「ネズは、本当に見たものを話していた。噂を流した連中も、聞いた話をそのまま喋っていただけだろう。見張りも、本当にあの屋敷に入った」
尊は、天井の染みを見上げた。
「一つひとつは本当だ。並べ方が、嘘なんだ」
人は、並べ方次第で、本当のことだけを使って嘘をつける。なら、人を追っている限り、自分はずっと向こうの手のひらの上だ。
尊は目を閉じる。
戦場の記憶が、ふと蘇った。
まだ十にもならず、初陣も済ませていない頃。初めて陣に連れていかれた夜、爺は丘の上から敵陣を指差して言った。
『尊。敵の数を知りたければ、旗を数えたらあかん』
『なんで?』
『旗は、立てようと思えばいくらでも立てられる。兵の数も、篝火も、偽ることができる』
爺は、敵陣の奥で細く立ち上る煙を指した。
『やから、竈を数えるんや』
『なんで竈かぞえるん? 意味が分からん』
『兵は嘘をつけても、腹は嘘をつけんからな。千の兵を養うには、千の兵の飯が要る。飯を炊くには、竈が要る。水も、薪も、それを運ぶ荷車も要る』
爺は、皺だらけの顔で笑った。
『人は嘘をつく。されど、物はなかなか嘘をつくことはできん』
尊は、目を開けた。
人は嘘をつけるが、物は嘘をつきにくい。
王女を生かして捕らえておくなら、何が要る。
水。食料。寝床。見張りの人間と、その人間の分の食い物。薬もいるかもしれない。
そして。
『……炉の方は――』
あの倉庫で、芝居が始まる前に聞いた一語。倉庫の前に散っていた、石を砕いたような白い粉。更には、二頭立てにしては深すぎた、旧道の轍。
人は並べ方で嘘をつける。だが、運ばれた物の重さは、嘘をつけない。
「……リオ。この街で、一番荷車が出入りする場所はどこだ」
リオは、目を瞬かせた。
「は? なんで急に荷車?」
「人を追うのは、やめた」
尊は、立ち上がった。
「これからは、物を追う」
***
昼過ぎ、灰色の外套の男が倉庫の中に戻ってきた。
「旅人は、屋敷まで尾けてきました」
「それで」
「表門を確かめ、水売りに屋敷の主を尋ね……それから、帰りました」
「詰所へは」
「向かっていません。まっすぐ、貧民街へ戻りました」
低い声の男は、しばらく何も言わなかった。窓の外では、荷を積んだ荷車が、ゆっくりと通りを横切っていく。
「……評議員の名を聞いて、詰所へ走らなかったか」
「はい」
「誰にも、何も伝えずに」
「はい」
男は黙り込んで考える。
人を追わせれば、人の道を歩く。人の道は、こちらがいくらでも作れる。だが、あの旅人は、その道の途中で足を止めた。
人を追うのを、やめたか。ならば、次に見に来るのは。
「帳簿を整えておけ」
部下が、怪訝そうに顔を上げる。
「帳簿、ですか」
「荷の出入り。馬車の持ち主。工房への注文。全部だ」
男は、窓の外を通り過ぎていく荷車を見つめていた。
「あの旅人は、次は物を見に来る」




