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亡国の王子は異世界で国を興す  作者: 鈴鳴り
第1章 旅人西へ

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第7話 罠の中

朝は、咳の音で始まった。


土間の隅で目を開けると、窓の隙間から薄い光が差し込んでいた。 寝台の方から、リオの母親の咳が途切れ途切れに聞こえてくる。 昨日よりも、少しだけ長い。


リオの姿はなかった。


尊は身を起こし、外套を羽織った。


扉が勢いよく開いたのは、その時だった。


「兄ちゃん!」


息を切らしたリオが、もう一人の少年の腕を引いて駆け込んでくる。 リオと同じくらいの歳で、頬に煤をつけた痩せた子供だった。


「声」


尊が寝台の方へ目をやる。 リオは慌てて口を押さえ、小声になった。


「こいつ、ネズ。 同じ通りの奴なんだけど……ネズ、さっきの話」


ネズと呼ばれた少年は、尊の顔と腰の刀を見比べて、少し怯んだように一歩下がった。


「……昨日の夕方、川の方で遊んでたんだ。 下流の、もう動いてない水車小屋のとこ」


「ああ」


「そしたら、黒い馬車が来て、小屋の前に止まって」


尊は黙って続きを待った。


「中から、男が二人出てきて……女の人を、担いで小屋に入ってった。 すごい綺麗な服の人。 ぐったりしてて、動いてなかった」


リオが尊の袖を掴む。


「なあ、それって――」


尊は答えず、ネズを見た。


《高天眼》。


少年の胸を巡る蒼は、怯えで少し速くなっている。 だが、乱れはない。 言葉を探して滞ることも、何かを隠して跳ねることもなかった。


嘘は、ついていない。


「よく話してくれた」


尊がそう言うと、ネズは安心したように息を吐いた。



***


情報は、それだけでは終わらなかった。

市場を歩けば、野菜売りの女が客と話しており、夜中に川沿いの道を、灯りもつけずに馬車が走っていった噂が流れていた。


更に、酒場の前を通れば、昼間から酔った男たちが大声で笑っていた。 下流の水車小屋に、最近誰かが出入りしているらしい。 幽霊じゃないのか、と。


どれも、別々の場所で、別々の人間が口にしている。


一つひとつは、ありふれた噂話だった。 だが、すべてが同じ一点を指している。


リオは、すっかり興奮していた。


「兄ちゃん、これもう決まりだろ! 早く衛兵に――」


「揃いすぎている」


尊は、ぽつりと言った。


「え?」


「本物の痕跡は、もっとまばらだ。 食い違って、欠けていて、どこかが噛み合わない」


戦場で、敵の動きを探る時もそうだった。 斥候の報告は、いつもどこかが矛盾している。 それを繋ぎ合わせて、ようやく一つの形が見えてくる。


それが今回は、最初から綺麗に揃っている。


まるで、誰かが並べておいてくれたかのように。


それに――尊は、昨日のことを思い出した。


詰所でトマスに名前を聞き、「覚えておく」と告げた。 その翌日に、これだ。


「……早いな」


「何が?」


「向こうの返事が」


リオは首を傾げたが、尊はそれ以上説明しなかった。


***


夕方近く、ネズが再び駆け込んできた。


手には、小さな布切れが握られていた。


「小屋の近くの、草むらに引っかかってた」


青い生地だった。 指で触れると、驚くほど滑らかで、薄いのに張りがある。 縁には、銀の糸で細かな刺繍が施されていた。


尊は、それをしばらく見つめた。


上等な布だということは分かる。 だが、どれほどのものなのかは分からない。 この国の衣服の価値も、身分ごとの違いも、尊は何も知らなかった。


「……兄ちゃん、それ」


リオが、恐る恐る覗き込んでくる。


「詰所へ行く」


***


ガルドは、尊の顔を見るなり眉間に皺を寄せた。 人目のない裏手へ回り、尊は手短に話した。 水車小屋の噂、目撃した子供、 そして、布切れ。


尊が差し出した布を受け取った瞬間、ガルドの表情が変わった。


指先で生地を擦り、刺繍を光にかざす。 それから懐から折り畳んだ紙を取り出し、そこに書かれた文字と布とを、何度も見比べた。


「……それは?」


「王都から届いた通達だ。 殿下が最後にお召しになっていた衣服の記述がある」


ガルドの声が、低くなった。


「青の外套。 銀糸で縁取りの刺繍。王宮の針子の仕事だ。 街の仕立屋に真似できるものじゃない」


ガルドは、布から顔を上げた。


「本物だ」


尊は黙って頷いた。


「すぐに人を出す。 水車小屋を――」


「待ってくれ」


ガルドの手が止まる。


「おそらく、罠だ」


「何だと?」


尊は、市場と酒場の噂のことを話した。 揃いすぎた裏付け、 自分が詰所で動いた翌日という、早すぎる時機。

ガルドは腕を組み、しばらく黙り込んだ。


「だが、布は本物だ」


「ああ。 だから、向こうが王女を押さえていることは確かだ」


尊は布を受け取り直した。


「ただ、それと、王女がその小屋にいることは別だ」


「罠なら、なおさら人を出すべきだろう」


「衛兵が動けば、向こうに筒抜けになる」


尊は、詰所の建物へ一度だけ目をやった。 ガルドも、その視線の意味に気づいたらしい。 顔がわずかに険しくなる。


「それに、向こうが見たいのは、俺一人がどう動くかだ」


「……罠と分かっていて、一人で行くのか」


「罠を仕掛けた人間は、罠がどうなるかを、必ず見に来る」


ガルドは、しばらく尊の顔を見つめていた。

尊は、手の中の布に目を落とした。


「それにもし、本当にそこにいたら――確かめなかったことを、俺は一生悔やむ」


罠だと分かっていても、確認せずにはいられない。 向こうも、それを分かったうえで、これを仕掛けている。

長い沈黙のあと、ガルドは大きく息を吐いた。



「先に言え、と言ったのは俺だったな」


苦々しげに頭を掻く。


「日が落ちて、お前が戻らなかったら、俺は人を出す。 それでいいな」


「大丈夫だ」


詰所を出ると、表で待っていたリオが駆け寄ってきた。


「どうだった?」


「本物だった」


「じゃあ、王女様、本当にその小屋に――」


「いないだろうな」


リオが足を止めた。


「は?」


「小屋には、何もない。 だが、小屋を見ている人間はいる」


リオは、ぽかんと口を開けた。


「お前は家に帰れ」


「えっ、俺も――」


「母親が待ってるだろ」


リオは、不満そうに唇を尖らせた。 だが、それ以上は何も言わなかった。


***


水車小屋は、街の南を流れる川の下流にあったが、すぐには小屋へ向かわなかった。 少し手前の橋の上で足を止め、旅人が景色を見ているような顔で 周囲を眺める。


小屋は川の手前の岸に建っている。 半ば崩れた水車が、流れの中で動かずに傾いていた。


もし見張るなら、どこからだろうか。 小屋の入口が見えて、身を隠せて、いざという時に逃げられる場所。


自分が見張り役を置くなら、 古い鐘楼、小屋の裏手の倉庫の二階。 そして、対岸の土手に茂る背の高い草むら。


この三つだ候補になる。 尊はそれ以上、どこも見なかった。


橋を渡り、まっすぐ小屋へ向かう。

扉は、半分外れかけていた。 軋む音を立てて押し開けると、埃っぽい空気が流れ出てくる。


中は薄暗かった。 床には藁が散らばり、隅には縄が一束、無造作に置かれている。 壁際には、青い布の切れ端がもう一つ、釘に引っかかっていた。


いかにも、ここに誰かが囚われていた、そう見える部屋だった。


尊は部屋を調べ始めた。 床に膝をつき、藁をかき分けながら 縄を拾い上げ、結び目を確かめる。 布の切れ端を、外の光にかざしてみる。


その間ずっと、《高天眼》は開いていた。


蒼の痕跡が何もない。 人が長く留まった場所には、蒼の名残がある。 息を吐き、眠り、怯え、身じろぎした跡が、薄い澱のように残る。


この小屋には、それがほとんどない。 昨日の夕方に誰かが運び込まれたのだとしても、一晩もここにはいなかった。


もう一つ、気づいたことがあった。 床にも、入口にも、白い粉が落ちていない。 昨日、西地区の倉庫の前で見た、石を砕いたような粉。 あれがここには一粒もない。



尊は、それを頭の隅に置いた。 そして意識を、小屋の外へ広げた。


鐘楼には人の気配はない。 そして裏手の倉庫の 二階に、鳩が数羽。


対岸の土手。 川幅を挟んだ草むらの奥に、一つの蒼が、ある。


じっと動かない。 呼吸に合わせて僅かに揺れるだけで、それ以外は、まるで石のように静かだった。 長い時間、同じ姿勢を保つことに慣れた者の流れだった。


尊は、その方向を見なかった。

布の切れ端を懐へしまい、縄を床へ戻し、小屋を出る。 少し不機嫌そうに首を振って、小さく息を吐いた。


何も見つけられなかった旅人が、肩を落として帰っていく。 そう見えるように、ゆっくりと橋を渡った。


***


日が落ちてから、一人の男が倉庫の中に戻ってきた。 目立たない灰色の外套に、泥のついた膝。


「どうだ?」


低い声の男が尋ねる。



「旅人は、一人で来ました」


「一人、か」


「はい。 小屋の中を調べて、何も見つけられずに帰りました」


「何を見ていた」


「床と、藁と、縄と、布です。 特別なことは何も」


「来る前は」


「橋の上で、少し景色を眺めていました。 それだけです」


男は、しばらく黙っていた。


「お前の方は、見たか」


「いいえ。 一度も」


「一度も、か」


「はい」


低い声の男は、指先で机を一度叩いた。


「罠と知って来る人間なら、見張りの一人くらいは想定する。 想定すれば、見張りがいそうな場所を、一度は目で確かめる」


監視役が、黙って続きを待つ。


「それを、一度もしなかった」


男は、窓の外の闇へ目を向けた。


「なら、気づいたな」


監視役の顔が強張る。


「申し訳ございませんでした。」


「お前のせいじゃない」


男は、静かに言う。


「あれは、そういう相手だ」


少しの間、倉庫に沈黙が落ちた。


やがて、男は口を開いた。


「次は、見つかってやれ」



***


リオの家へ戻る頃には、すっかり夜になっていた。


土間の隅に腰を下ろすと、待ちかねたようにリオが寄ってくる。


「どうだった?」


「何もなかった」


「やっぱり罠だったのか……」


リオは肩を落とした。 それから、ふと顔を上げる。


「じゃあ、兄ちゃんの言ってた、見てる奴は?」


「いた」


「いたの!?」


寝台の方から、また咳が聞こえた。 リオは慌てて口を押さえる。


「顔、見たの?」


「見ていない」


「じゃあ、意味ないじゃん」


尊は、窓の外の闇を見た。 対岸の草むらの奥にあった、あの静かな蒼。

体格、 蒼の深さ、重心の置き方と長く伏せることに慣れた、独特の流れ。



顔は見ていないが、向こう側はこちらの顔を知っているわけなので、次あった時は蒼が揺れるだろう。


「次に会えば、分かる」


尊は微笑んでそう言うのだった。


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