第6話 餌
尊は、詰所から少し離れた市場へ移った。 果物屋、肉屋、道具屋。 人通りは多い。 詰所の入口ばかり見つめていては、怪しまれるだけだ。
時折、店先の品を眺めるふりをする。 果物を一つ手に取ってみた。
「兄ちゃん、三鉄貨だ」
もちろんお金なんて1銭も持っていないので、そっと戻した。 店主の怪訝な視線を背に、尊は隣の店先へ移る。
日が傾き、市場に落ちる影が少しずつ長くなっていく。 詰所からは、誰も出てこない。
やがて、遠くで鐘が鳴った。 尊は焦らなずに行動する。 むしろ、すぐに動くようでは簡単すぎる。 鐘の余韻がすっかり消えた頃、ようやく例の男が現れた。
一人ではない。 別の衛兵と、話しながら歩いている。 笑っている。 ごく普通の様子だ。
二人は酒場の前まで行き、そこで別れ、そのまま男は市場の方へ向かう。 尊は後を追わない。 ただ、同じ方向へ歩くだけだ。
男はリンゴを買い、次に肉屋に寄り、その後は靴屋を覗いた。 一度細い路地へ入ったかと思えば、なぜかまた同じ通りへ戻ってくる。
尊の目が細くなった。 誰かに尾けられていないかを確認している。
店の窓、水桶の水面、磨かれた金属板、様々な 反射するものを使って、背後を窺っている。 これ以上は危ないと判断し、途中で追跡を切った。
横道へ逸れ一本先の通りを、走らずに歩く。 男の進む方向を読み、別の角から戻る。 一度姿を見失っても構わない。 この辺りの道は限られている。
しばらくして、尊は再び男の背中を捉えた。 男は、何も気づいていない。
........慣れているな。 衛兵だからか、それとも、別の理由があるのか。 今そのことを考えてみても仕方がない。
やがて男は市場を抜け、西地区へと入っていった。 人通りが目に見えて少なくなる。 古い倉庫が建ち並ぶ一角だ。 男は、そのうちの看板のない一軒へと入っていった。 尊は向かいの細い路地に身を潜め、距離を取った。
倉庫の入口の石畳に、白い粉が薄く散っているのが目に入った。 小麦粉ではない。 路地の際まで流れてきたものを指先で拭うと、ざらりとした。 石を砕いたような手触りだった。
入口の前には、轍がいくつも刻まれている。 隣の倉庫の前よりも、どれも一段深い。
重い荷の出し入れでもしているのだろう。 尊はそれ以上考えず、壁の方へ意識を戻した。 《高天眼》を開く。
だが、壁の向こうまでは見えない。 人の思考も読めない。 便利な眼ではあるが、万能ではなかった。
尊は耳を澄ませ、古びた板壁の隙間から、聞き耳を立てる。 ひどく低い。 わざと聞き取りにくくしているのだろう。 言葉の端々が、風の音に紛れて途切れた。
「……炉の方は――」
例の衛兵の声だ。 続きは聞き取れなかった。
「後にしろ」
聞かれたくないのか、別の男の声が短く遮った。 低く、落ち着いている。 『炉』何のことかは分からない。 尊はその一語だけを、頭の隅に留めた。
「……報告…ある。 第一王女の件だ。 北の旧道を……奴が現れた」
沈黙。 誰かが居ないか警戒しているのだろう。 所々聞き取りにくい。
「誰だ」
「貧民街のガキと、旅人だ」
「旅人?」
「ああ。 東方の刀を差していた」
尊は壁際で息を殺した。 少し間をおいてから尋ねる。
「何を知っている」
「黒い馬車。 それと、落ちていた部品を二つ……副長が、旧道と採石場に人を出した。二つ目には、工房の刻印があるらしい」
今度は、すぐに答えが返ってきた。
「そんなものは、ない」
尊の眉が、ぴくりと動いた。
「……何?」
「その部品に、工房印は入っていない。 ……俺は、現物を知っている」
衛兵が黙り込む。 尊もまた、息を詰めた。
「なら……あの旅人は」
「お前を試したんだ」
即座に答える。 迷いがない。
「お前、反応したか?」
「……していない」
「自分では、だろう」
尊は、壁際で僅かに目を細めた。 命令に慣れた声だった。 迷いがなく言葉が短い。 部下の失態を咎める時でさえ、声を荒げない。
――兵を率いたことのある人間だ。 手強い。
「尾行は?」
「確認した。 三度。 市場を二周して、途中で道も戻った」
「それでも今ここへ来た」
衛兵の声が途切れる。
「連絡は、別の方法にするべきだった」
「すまない」
そこで、会話が途切れた、短い沈黙が流れる。 床板が、一度だけ軋んだ。 誰かが、窓の方へ歩み寄ったような音。
尊は、身じろぎ一つしなかった。 呼吸を浅くし、蒼の巡りまで静める。 やがて、低い声で話し始めた。
「まあいい。 今さらだ」
先ほどより、少しだけ聞き取りやすい。 風向きが変わったのか。 尊はそう思った。
「王女を移すか?」
衛兵が尋ねる。 尊の表情が変わった。 答えが返るまで、少しの間があった。
「動かさない」
「だが――」
「あの旅人が我々の反応を見ているなら、今動かせば居場所を教えるだけだ。 副長の捜索隊も、旧道を探したところで何も見つけられん」
「なら、どうする?」
「何もしない。 お前は明日も普通に勤務しろ。 少年にも旅人にも、手を出すな」
「放っておくのか」
「今あいつらの身に何か起きれば、誰が怪しまれる?」
衛兵は答えなかった。今襲う可能性があるとしたら、詰め所に居た人間である。少し考えたらわかることだ。この段階で危険を冒すにはまだ早いだろう。
「敵かどうかすら分からん相手を、自分から敵にする必要はない」
敵、と呼ばれたことよりも、その判断の方が気にかかった。 正しい。 自分でも、同じことをする。 戦場で何度も、同じ判断を下してきた。
「予定は?」
衛兵が聞く。
「変更なしだ。 変更すれば、こちらが情報を得たと教えるだけだ」
また、同じだ。 尊は、静かに壁から離れた。 中の男の顔を確かめたい気持ちはある。 だが、欲をかけば、掴んだ糸ごと失う。
足音を殺し、乾いた石畳だけを選んで、路地の奥から別の通りへと抜けた。
***
倉庫の中。 衛兵が裏口から出ていってから、しばらくして。 低い声の男は、扉の傍に控えていた部下に、短く命じた。
「向かいの路地を見てこい」
部下が出ていき、程なくして戻ってくる。
「誰もいません。 足跡一つ、ありませんでした」
男は、窓の外の暗がりへと目を向けて小さく笑った。
「なら、いたな」
部下が怪訝そうに顔を上げる。
「あの路地は、昨日の雨がまだ乾いていない。 猫でも通れば跡が残る」
男は、ほんの僅かに口の端を上げた。
「それが、一つもない。 ――通った人間が、残さなかったということだ」
それから男は、入口の石畳へ視線を落とした。
「明日の朝までに、表を掃いておけ」
***
尊は表通りへ戻った。 夕暮れの街を、人々が行き交っている。 店じまいを始める商人。 家路を急ぐ親子。 歩きながら、尊は聞いた会話を一つずつ並べ直していき、分かったことを整理していく。
一つ。 王女の失踪には、銀の細工を知っていることから内部の人間が関わっていることが確定している。
二つ。 あの衛兵は末端で、王女の居場所を知らない。
三つ。 相手側には、頭の切れる人間がいる。 それも、兵を率いた経験のある者だ。
そして、四つ目を数えようとしたところで、尊は足を止めた。
おかしい。 あの男は、衛兵が尾けられた可能性に気づいていた。 「それでも、今ここへ来た」と口にし、一度は会話を止め、窓の方へ歩み寄っている。
それなのに、その後も話し続け、王女を動かさないこと、予定に変更がないこと、捜索隊が旧道を探しても無駄だということを聞こえるように話していた。
それにあの沈黙の後から、声は少しだけ聞き取りやすくなっていた。 風向きのせいだと思った。 本当に、そうだったのか。
頭の回る男が、聞かれているかもしれない場所で、そこまで喋るだろうか。 不用意だったのか。 それとも聞かせるために、喋っていたのか。
ならば、沈黙の後の言葉はどれも鵜呑みにはできない。 「動かさない」も、「予定に変更はない」も、こちらに掴ませるための餌である可能性がある。 中でも引っかかるのは、旧道の件だった。
「旧道を探しても何も見つからない」
あれだけが、妙に具体的だった。 本当に何もないのか。 それとも、旧道から目を逸らさせたいのか。 逆に、沈黙の前の言葉は違う。 あの時の男はまだ、聞かれていることを知らなかった。
『炉の方は――』『後にしろ』
衛兵が口にしかけ、男が遮った一語。 芝居が始まる前の、本当の会話だ。 何の炉なのかは分からない。 だが、あの男が遮ったということは、それだけ聞かれたくない言葉だったということだ。
そしてもう一つ、疑う必要のない言葉があった。
『王女を移すか?』
あれは、あの男ではなく、居場所すら知らされていない末端の衛兵が、自分から口にした問いだ。 男が声を作り始めてからも、あの衛兵だけは芝居を知らなかったはずだ。 殺していれば、出てこない問いだった。
王女は、まだ生きている。 それだけは、信じていい。 尊は再び歩き出した。
「手を出すな」――あの言葉も、餌かもしれない。
一瞬、リオの顔が浮かんだ。 だが、すぐに打ち消す。 今あの子に何かあれば、真っ先に疑われるのは内側の人間だ。 あの男が、そんな割に合わない真似をするとは思えない。
探りを入れたのは、自分だ。 なら、向こうの目が向くのも自分の方だろう。
尊は、詰所の壁に貼られていた紙を思い出す。 何人もの失踪者。 年齢も、職業も、性別も違う。 共通点はない。
まだ分からない。 だから、調べる。 敵が何を考えているのか。 何を必要としているのか。 どこへ向かおうとしているのか。
戦場とは違う。 ここでは、敵は旗を掲げていないし、剣も抜いていない。 だからこそ、面白い。
「お前は明日も普通に勤務しろ」
あの一言を、尊はもう一度思い返した。 明日の第三鐘。 自分は、あの詰所へ行かなければならない。 そこには、あの衛兵がいる。
向こうも、それを知っている。 尊は、暮れていく空を見上げた。
「さて」
敵は、こちらを警戒した。 そして、こちらに何かを掴ませようとしている。
ならば次はあの男が、何を掴ませたいのか。 そこから考えればいい。




