第20話 約束
翌朝ロイス商会の裏口に、一台の荷車が止まっていた。荷台には油紙に包まれた紙の束が、木箱にぎっしりと詰め込まれている。
「術師どもの記録だ。書庫の棚ごと持ってきた」
荷車の傍で、クラウスが言った。目の下に隈を作っていたが、声は落ち着いていた。
「騎士団が坑道に着いたのは、俺たちが森を出て半刻後だった。炉の間はそのままにしてある。記録の小部屋だけが、空だ」
「十分だ」
尊は頷いた。
「中身は俺には半分も分からん。炉の組み方、蒼の流し方、術式の写し。読める者を探す必要がある」
「探しておいてくれ」
「金がかかるぞ」
「三日後には入る」
クラウスは、片眉を上げた。
「……どこから」
「お前の元の主から」
クラウスは、しばらく黙って尊を見ていた。それから、呆れたように首を振り、荷車を倉庫の奥へと引いていった。
尊は、木箱の山を見上げた。人から蒼を吸うのではなく、森から、魔物から、人でないものから蒼を集める炉。それが形になれば、灯りも、薬も、荷を運ぶ力も変わる。この国の物の流れそのものが、変わるかもしれない。そうなれば、国は必ず欲しがる。――なら、先に手を打っておく。
***
リオの家に戻ると、リオが戸口で待ち構えていた。
「兄ちゃん、本当にその格好で行くのかよ」
伸び放題の髭。括っただけの長い髪。泥と煤にまみれた外套。自分の袖口を見下ろした。
「正式な謁見じゃない。礼を言いたいから来い、というだけだ」
「でも、王女様だぞ!?」
「王女は、坑道でこの顔を見ている」
リオは何か言い返そうとして、結局ため息をついた。
「……リオ。お前も来い」
「え?」
「金具を拾ったのは、お前だ」
リオの顔から、血の気が引いた。
***
王家の別邸は屋敷町の奥、湖を見下ろす高台にあった。白い石造りの館の門には、双頭獅子の紋章を掲げた近衛の騎士たちが立っている。昨日貧民街へ使いに来た騎士が、門の前で二人を待っていた。騎士は尊の泥だらけの外套に一瞬だけ目をやったが、何も言わずに中へと案内した。リオは尊の背中に隠れるようにして、ずっと尊の袖を握っていた。
通されたのは、謁見の間ではなく。湖に面した、小さな応接間だった。大きな窓から光が差し込み、暖炉の前に、柔らかそうな椅子がいくつか置かれている。その一つに、少女が座っていた。
長い銀色の髪を、緩く後ろでまとめている。淡い青の部屋着の肩に、厚手の肩掛けを羽織っていた。顔色はまだ白いが、背筋はまっすぐに伸びている。碧い瞳が、扉をくぐった尊を捉えた。―――第一王女、リネア。
傍らに、侍女、近衛の騎士が一人ずつ。それから、帳面を抱えた初老の男が一人。王女付きの侍従だろう。そして窓辺に、もう一人。深紅の長衣を纏った、白髪の老人が立っていた。昨日会ったアイゼンベルク公爵だ。
尊は、そちらを見なかった。《高天眼》の中で公爵の蒼が、張り詰めたまま静かに流れているのが分かった。昨夜暖炉の前で見たのと同じ、太くよく練られた流れ。尊は王女の前へ進み、膝をついた。
右の膝を床につき、左の膝を立てる。右の拳を床に添え、背筋を伸ばしたまま、深く頭を垂れる。
天城の武家が、主君の前で取る礼だ。特に考えることも無く自然とこの体制になっていた。近衛の騎士が、怪訝そうに眉を寄せる。この国の礼ではないが、その所作には一切の乱れがなかった。
背後で、リオが慌てて、見よう見まねで膝をついた。
***
「どうぞ、楽になさってください」
澄んだ声だった。
「今日は、謁見ではありません。わたくしが、お礼を言いたくてお呼びしたのです」
尊が顔を上げると王女の碧い瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。伸び放題の髭。泥だらけの外套。坑道の灯りの中で見上げた時と、何一つ変わらない姿。王女の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……やはり、あなたでしたね。昨日は、名前しか伺えませんでした。ミコト殿」
王女は、椅子から立ち上がろうとした。侍女が慌てて手を添える。王女はそれを制し、自分の足で立ち、尊の前まで歩み寄った。そして、深く頭を下げた。窓辺の公爵が、僅かに身じろぎした。近衛の騎士も、侍従も、息を呑む。
王女が、泥だらけの旅人に頭を下げている。
「わたくしの命を救ってくださったこと。そして、捕らえられていた民を、一人残らず連れ出してくださったこと。心より、感謝いたします」
尊は、膝をついたまま答えた。
「……過分なお言葉です」
***
王女は椅子に戻ると、尊の背後のリオへと目を向けた。
「その子が、リオですね」
リオが、びくりと肩を跳ねさせた。
「詰所の副長から報告を受けています。わたくしの馬車から落ちた金具を拾い、黒い馬車を見ていたのは、あなただと」
「は、はいっ!」
リオの声が、裏返った。
「ありがとう。あなたも、わたくしの恩人です」
王女は、侍従に目で合図をした。
「捜索の際に触れを出した褒賞を、この子に。それから、お母上がお加減を悪くされていると聞きました。王家の医師を、遣わしましょう」
リオは、真っ赤になって、床に額がつくほど頭を下げた。その肩が、小さく震えていた。王女が、尊へと視線を戻した。
「ミコト殿。一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「なんなりと」
「坑道で、あなたはわたくしを『殿下』とお呼びになりました。『無礼を許していただきたい』と」
王女は、静かに言った。
「いち旅人の者が礼に適った言葉を、あの場で口にできる者はそういません。今のお辞儀も、この国のものではありませんが、わたくしが見てきたどの騎士の礼よりも、美しかった」
碧い瞳が、尊を見つめていた。
「あなたは、何者なのですか」
応接間が、静まり返った。窓辺の公爵の蒼が、僅かに張り詰めるのが分かった。尊は、少しだけ間を置く。
「東の、遠い国から来た者です」
「遠い国」
「この国の地図には、おそらく載っておりません」
嘘ではない。王女は、しばらく尊の顔を見ていた。それから、小さく微笑んだ。
「……答えてくださる気は、ないのですね」
滅んだ国であるため、天城の名前も一応のため伏せておく。
「旅人は誰でも、何かしら隠しているものです」
王女の笑みが、ほんの少し深くなった。
「では、いつか、お聞かせください」
一連のやり取りが終わったところで、公爵が王女のそばへ歩いて行き、口をはさむ。
「殿下をさらった一味のことを、お聞きしたい。わしは、殿下の大叔父にあたる。アイゼンベルクと申す。此度は、まことに大儀であった」
初めて会う者に向ける、穏やかな笑みだった。
「一味の頭目は、取り逃がしたと聞いたが」
尊は、公爵を見上げ二人の目が、合った。
「排水路を抜け、川からレグナを出て、深い森の方へ逃げていきました。顔も名も、分かりません」
公爵の蒼は、揺れなかった。
「……そうか。口惜しいことだ」
公爵は、悲しげに首を振り、王女の肩にそっと手を置いた。
「殿下にこのような仕打ちをした者を、決して許してはならん」
尊は、その光景を、膝をついたまま見ていた。自分がさらわせた王女の肩に、手を置いている。尊は、目を伏せた。
「さて、ミコト殿」
王女が、居住まいを正した。
「わたくしは、あなたに報いなければなりません。望みがあれば、仰ってください」
侍従が帳面を開いた。近衛の騎士も、公爵も、尊を見ていた。泥だらけの旅人が、王女の命の代わりに、何を望むのか。何も望まなければ、かえって怪しまれる。かといって金や爵位を求めれば、その場限りで終わる。恩は、もっと長く使えるものに換えるべきだ。
「三つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「三つ……ですか?」
「一つ目は、身元の保証です」
尊は言った。
「私はこの国に身元を保証する者がおりません。名も、身分も、住む家もない、ただの旅人です。この国で暮らすことを、お許しいただきたい」
王女は頷き、侍従へ目をやった。侍従が、帳面に書きつける。
「わたくしの客人として、身元を保証いたしましょう。その証となるものを、用意させます」
「二つ目は、商いの許しです」
侍従の筆が、一瞬止まった。
「このレグナで、商会を開くことをお許しいただきたい」
近衛の騎士が、思わず尊を見た。王女の命を救った男が、望むのが商い。王女も、意外そうに目を瞬かせた。
「商い、ですか」
「この街は、物の流れが豊かです。荷を運び、物を作り、人を雇う。そうして生きていければと」
王女は、しばらく尊を見てくすりと笑った。
「命の恩人が商いの許しを望むとは、思いませんでした。よろしいでしょう。わたくしの名で商会を開く鑑札を」
尊は、深く頭を下げ、顔を上げた。応接間の空気が、僅かに変わる。
「三つ目はもし私が商いの中で、何か新しい品を作り出した時。その作り方を、王家が召し上げないとお約束いただきたい」
侍従が、筆を止めて顔を上げた。
「……それは」
初老の侍従が、困惑したように王女と尊を見比べた。
「殿下、恐れながら。国の益となる技であれば、王家がそれを召し上げ、広く役立てるのが慣わしにございます」
「だからこそ、お願いしております」
侍従が、言葉に詰まる。
「新しい品を作るには、金も人も時もかかります。作り上げた途端に召し上げられるのなら、誰も新しいものを作ろうとはしません」
尊は、静かに続けた。
「作った者がその品を作り続け、売り続けられる。そう約束されていれば作る者は増えます。作る者が増えれば、品は増え、国も潤う」
天城でも、そうだった。刀鍛冶も、織物の職人も、己の技を守れるからこそ技を磨いた。
「もちろん、国が危うい時は別です」
尊は言った。
「戦や国の存亡に関わる時に、私の作ったものが役に立つのなら、その時はお使いください。ですが、そうでない限りは…権利を認めて頂きたい」
王女は、黙って尊を見ていた。やがて、侍従へと目を向けた。
「書き留めてください」
「殿下……」
「ミコト殿が作り出した品の技は、王国の存亡に関わる時を除き、王家がこれを召し上げない。アルヴェリア第一王女リネアの名において」
侍従は、しばらく躊躇っていたが、やがて深く頭を下げ、帳面に書きつけた。
「ミコト殿。あなたが望んだのはすべて、あなたが自分の力で生きていくための許しばかりです。わたくしが差し上げるのは、紙に書いた約束だけ……」
王女は、侍従を見て、困ったように眉を寄せた。
「これでは、王家の面目が立ちません」
侍従も、頷いた。
「恐れながら、殿下の御命を救った者への報いが、許しの書状のみとあっては、王宮でも物笑いの種となりましょう」
尊は、黙っていた。そうなるだろうと、思っていた。王女の命を救った者に、紙切れ三枚で報いた。そんな話が王宮に広まれば、王家は恩人を軽んじたと言われる。王女自身の名にも傷がつく。だから、権利だけを望めば、王家は面子のために必ずそれに何かを添えてくる。
王女は、侍従と短く言葉を交わしてから、尊に向き直った。
「それではミコト殿。王家より、報奨金として、金貨五百枚を贈ります」
侍従が、帳面に書きつけた。
「これは、あなたが望んだものではありません。わたくしが、王家として、受け取っていただきたいものです。どうか、断らないでください」
尊は、深く頭を下げた。
「……ありがたく、頂戴いたします」
窓辺で、公爵の喉が、小さく鳴った。笑いを堪えたのだろう。
尊は、そちらを見なかったが、《高天眼》の端で、公爵の蒼が緩むのが分かった。張り詰めていた流れが、ふっと解ける。
公爵は、窓辺にもたれ、口元に手を当てていた。その指の陰、唇の端が、僅かに吊り上がっていた。昨夜は、金をせびった。今日は商いの許しと、商いで得るものを王家に取られない約束をせびった。
身元の保証も、商いの鑑札も、技を守る約束も、すべては金を稼ぐためのものだ。――欲深い男だ。
公爵の目が、そう語っていた。王女の命を救っておいて、望むのは己の儲けのことばかり。名誉も、爵位も求めない。ただ、金になるものだけを、一つも取りこぼさないように、抜け目なく掻き集めていく。
扱いやすい。金さえ握らせておけば、この男は黙っている。公爵は、窓の外の湖へと視線を逸らした。その横顔には、満足げな笑みが浮かんでいた。
尊は膝をついたまま、目を伏せた。―――今はそれでいい。
***
別邸の門を出ると、湖から吹き上げる風が、心地よかった。リオは、まだ夢を見ているような顔で、尊の隣を歩いていた。
「……兄ちゃん。褒賞、俺にって……王家の医者が、母ちゃんに、って……」
「そうだ」
リオは、何か言おうとして、言葉にならずに、袖で顔をごしごしと擦った。それから、ふと顔を上げた。
「なあ、兄ちゃん。最後のやつ、何だったんだよ。作り方を取らないでくれ、って」
「そのままの意味だ」
「でも、兄ちゃん、まだ何も作ってねえじゃん」
「これから作る。いや……改良する」
リオは、首を傾げ、尊は、前を向いたまま歩いた。倉庫に積まれた木箱いっぱいの記録。人でないものから蒼を集める炉。それが形になった時、国は必ず欲しがる。王家が召し上げると言えば、旅人一人では逆らえない。だから、作る前に約束させた。
作った後では遅い。作る前ならただの抜け目のない商人の、ささやかな欲に見える。あの老人が、にやりと笑ったように。
身元の保証。商いの鑑札。技を守る約束。そして王家の面子が勝手に添えてくれた、金貨五百枚。公爵からの金貨三百枚と合わせれば、八百枚になる。配下を養い、炉の記録を読める者を雇い、商会を立ち上げるには、十分すぎる額だった。
「リオ。頑張ったな」
リオは袖で顔を擦りながら、何度も頷いた。尊はその頭に、ぽんと手を置いた。それから、懐の中の、まだ開かれていない封書に、そっと指先で触れた。欲深い男だと、あの老人は思っている。
それでいい。欲深い男の牙は、金にしか向かないと思われているうちは、必要以上に警戒されない。




