第19話 公爵との取引
その夜ベルナー家の裏口の木戸は、尊が叩く前に内側から開いた。煙管の使用人が、蒼い顔で立っていた。尊が昼のうちに手紙を預けた男だ。
「……お、お待ちしておりました」
男は震える声でそう言うと、尊を裏の路地へと導いた。屋敷町の石塀の間を縫い、いくつかの角を曲がる。やがてひときわ高い塀に囲まれた屋敷の、小さな通用門の前で足を止めた。門柱に、銅の紋章が掛かっていた。
翼を広げた鷲。その上に、冠。尊が懐に持つ封書の蝋印と、同じものだった。
通されたのは、灯りを落とした書斎だ。壁一面の書棚、重厚な机、暖炉には火が入り、その前の椅子に一人の老人が腰掛けていた。白髪を後ろへ撫でつけ、仕立ての良い深紅の長衣を纏っている。年は六十を過ぎているだろう。皺の刻まれた顔に、柔和な笑みを浮かべていた。
アイゼンベルク公爵。現国王の叔父であり、王女セレスティアの大叔父。
「よく来てくれた」
公爵は、穏やかな声で言った。
「掛けたまえ。殿下を救ってくれた英雄を、立たせたままでは礼を欠く」
尊は、座らずにそのまま《高天眼》を開く。公爵の蒼は、穏やかに流れていた。年老いた身体に似合わず、太くよく練られた流れだった。
そして公爵以外にも揺れる蒼がいくつもあり、尊は公爵を見たまま言う。
「右の書棚の裏に二人。左の扉の向こうに三人。窓の外の、庭木の陰に一人。話をするのに、六人も要らないだろう」
公爵の笑みが、ほんの僅かに止まった。暖炉の火がぱちりと爆ぜた。公爵はしばらく尊の顔を見つめていた。それから、小さく手を叩いた。壁の向こうの六つの蒼が、静かに遠ざかっていく。
「……なるほどクラウスが、膝を折るわけだ」
***
「手紙には、旅人が会いたがっている、とだけあった、クラウスの名でな。」
公爵は、指先で椅子の肘掛けを撫でた。
「あの男が寝返ったということは分かったが、旅人が何を望んでいるのかは、書いていなかった。何の話かね?」
公爵は、首を傾げてみせた。
「王女殿下をさらった不届き者どもの話なら、わしも心を痛めておる。殿下が無事に戻られて、本当に良かった」
公爵の胸の蒼は左へ、跳ねた。
「嘘をつくなら、もう少し上手くやれ」
公爵の指が、肘掛けの上で止まった。尊は、懐から何も取り出さずにただ、静かに言った。
「翼を広げた鷲と、冠。お前の印が押された命令書を、俺は持っている」
「……ほう」
「今、ここには持ってきていない。もちろん安全な場所にあるし写しも取っている」
公爵は、何も言わずに尊は、淡々と続けた。
「坑道の炉も見た。蒼の強い者を集めて、殿下を注ぎ込もうとしていたことも知っている。牢の中には、お前の命令で動いた衛兵もいる」
暖炉の火の音だけが、書斎に響いていた。やがて公爵が、ゆっくりと口を開いた。
「それで何が望みだ。わしの首を王宮へ差し出して、殿下の恩人として名を上げるつもりか」
柔和な笑みが、顔から消えていた。
「取引をしに来た」
***
「まず今回の件、全てを知っているのは俺とクラウスしかいない。そこで俺は何も知らなかったことにする」
公爵の眉が、僅かに動いた。
「命令書のことも、炉の主が誰だったかも、俺は誰にも話さない。殿下にもだ……その代わりに三つ、呑んでもらう」
尊は、指を一本立てた。
「一つ、俺の配下の命を狙うな。クラウスも、その部下も、俺の周りの者もだ。二つ、お前の手の者が押さえている、トマスという衛兵の妹を放せ。無事なまま、こちらへ引き渡せ。三つ、牢の中のトマスを、お前の口添えで助けろ。首を刎ねるのではなく、衛兵を追われて街を出る程度で済ませろ」
公爵はしばらく黙りこみ、それから小さく笑った。
「妙な取引だ。わしの首を取れる札を握っておいて、望むのは裏切り者の衛兵とその妹、それに寝返った男の命か」
「ああ」
「それで、わしが呑むと思うのかね」
公爵の目が、細くなった。
「命令書の写しがあると言ったな。だが写しは写しだ。それに、お前を今ここで消せば、写しの行方を知る者もいなくなる」
尊は、公爵を見た。
「俺を、簡単に殺せると思うのか」
静かな声に公爵の口元が、僅かに強張った。
「昨夜、坑道には十二人いた。術師が二人。剣を持った見張りが十人。俺は一人で入って一人も殺さずに、全員を縛り上げて連れ出した」
尊は、書斎の壁へ目をやった。先ほどまで、六つの蒼が潜んでいた場所だ。
「壁の向こうの六人を、俺は部屋に入る前から数えていた。一人ずつ、どこに立って、どちらの手で剣を握っているかもな」
暖炉の火が揺れた。
「六人で足りると思うなら、呼び戻せばいい。十人でも、二十人でも」
公爵は、何も言わなかった。その胸の蒼がほんの一瞬、縮こまるように揺れたのを尊は見逃さなかった。
「それに仮に、俺を殺せたとしても、同じことだ」
公爵が、怪訝そうに尊を見た。
「俺が死んだら。クラウスが死んだら。俺の配下の誰か一人でも、あるいはトマスの妹が死んだら」
尊は、公爵の目をまっすぐに見た。
「その時点で、お前の名が市井に広がる」
勿論はったりではあるが、実際に事件を解決した得体のしれない人間が言うのだ。脅し位にはなるだろう。
「命令書の写しは誰かが死ねば、勝手に動くように置いてある。王宮へではなく街へだ。酒場、市場、荷揚げ場。人の口から人の口へ、王の叔父が王女を炉にくべようとした、と」
尊は、言葉を切った。
「王宮なら、揉み消せるかもしれない。だが、市井の噂は揉み消せないし、揉み消すのにも時間がかかるだろ?」
***
公爵は、長いこと黙っており、暖炉の火が二人の顔を赤く照らしていた。
「……わしが、証拠を消して回ったら、どうなる」
公爵が、低く尋ねた。
「消せばいい。術師を消し、牢の衛兵を消し、寝返った男を消し、俺を消す。それができるなら、やればいい....だが消して回れば、走った跡が残る」
尊は、淡々と続けた。
「王女を救った旅人が死ぬ。牢の衛兵が死ぬ。坑道の術師が、次々と口を塞がれる。そうなれば、誰かが必ず問う。なぜ、こいつらは死んだのか。誰に、都合が悪かったのか」
公爵は、何も言わなかった。
「問われれば、名が出るし市井にも公爵の名前が広がっている」
尊は、公爵の胸の蒼を見ていた。流れが僅かに乱れている。
「宮廷では、名が出るだけで十分な傷だろう。証拠などなくとも噂だけで足元を掬おうとする者は、いくらでもいるはずだ」
公爵の唇が、固く引き結ばれた。
「だが、手を結べば、この件は少なくとも公爵の名も出ずに終わる。王女をさらったのは、深い森へ逃げた名も知れぬ一味。炉の主は分からぬまま。牢の衛兵は、脅されていた哀れな男として街を追われる。お前の名は、どこにも出てこない」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「走り回って証拠を消そうとするか。それとも、ここで俺と手を結んで、何事もなく終わらせるか」
尊は、公爵の目を見据えた。
「どちらが得かは、お前の方がよく分かっているだろう」
長い、長い沈黙だった。やがて、公爵は深く息を吐き、椅子の背にもたれた。
「……クラウスの言った通りだ」
公爵は、乾いた声で言った。
「手紙には旅人が会いたがっている、とだけあった。だがその下にもう一行、走り書きがあった」
尊は、黙って続きを待った。舟の縁で、クラウスが少しだけ迷ってから書き足していた、あの一行だ。
「――この男とは、争わない方がいい」
公爵は、暖炉の火を見つめた。それから、尊の方へ視線を戻す。
「一つ、聞いてもいいかね」
「なんだ」
「それだけの札を握っておいて、お前が得るのは、裏切り者の衛兵とその妹の命だけか」
公爵の目が、探るように細くなっていた。尊は、その目を見返した。何も求めない人間は、何を企んでいるのか分からない。分からない相手ほど、人は警戒をして、いつ寝首を掻かれるのかと考え続ける。そうして警戒し続けた人間は、いずれ先に手を出そうとする。
だが、欲しいものがはっきりしている人間なら、話は別だ。
「いや、もう一つある……金だ」
公爵は一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「……金」
「配下を養う金が要る。クラウスとその部下、それにトマスと妹。全員行き場のない人間だ。食わせるにも、住まわせるにも金がかかる」
尊は、淡々と言った。
「俺は、この国に来たばかりで、銅貨一枚持っていない」
「いくら欲しい」
「金貨三百枚」
公爵は、しばらく尊の顔を見ていた。やがてその口から、低い笑い声が漏れた。先ほどまでの乾いた笑いとは違う。どこか、肩の力が抜けたような笑いだった。
「……ようやく、人間らしいことを言った」
公爵は、椅子の肘掛けを指で叩いた。
「口止め料にしては、安いものだ。よかろう金貨三百枚、妹と一緒に倉庫へ届けさせる」
尊は、公爵の胸の蒼を見た。先ほどまで張り詰めていた流れが、僅かに緩んでいた。金を求める男、欲のある男、欲があるならその欲を満たしてやれば、黙らせておける。この老人は、そう考えたのだろう。
「呑もう」
そう公爵が言った蒼は揺れていなかった。
「トマスの妹は三日のうちに、そちらへ返す。どこへ引き渡せばいい」
「街外れの、ロイス商会の古い倉庫へ」
「衛兵のことは、王都の法務卿に一言添えておく。脅されていたのなら、追放で済むだろう」
「それでいい」
「クラウスにもその部下にも、お前にもわしの手の者は近づけん」
公爵は、尊を見上げた。
「その代わりお前も約束を守れ。命令書のことは、誰にも話すな」
「お前が守る限りは約束は、守る」
公爵は、小さく笑った。
***
屋敷を出ると、夜風が冷たかった。屋敷町の石畳を、尊は一人で歩く。背後に、誰もついてくる気配はない。少なくとも今は、約束を守るつもりらしい。
手を結んだ以上、公爵は下手には動けない。動けば走った跡が残り、走った跡が残れば名が出る。約束を交わした相手の前で、ぼろを出すような男ではないだろう。そして、金を渡した相手を欲の深い若造だと思っている。
欲の深い若造は扱いやすい。金さえ渡せば、黙っている。そう思っている限り、あの老人は、尊を本気で消そうとは考えない。この件は、これで無難に終わる。
尊は、足を止めて、屋敷町の夜空を見上げた。
「爺……民を炉にくべて動力にするなんて、天城では考えられへんわ」
尊は懐かしい言葉で誰もいない空に言うのだった。




