第16話 3つ目の道
第一鐘が鳴り終わる頃、北門の衛兵たちは旧道から近づいてくる奇妙な一団に気づいた。
先頭を歩くのは伸び放題の髭をした男だった。その腕に、外套にくるまれた誰かを抱えている。
後ろには、痩せ細った人々が、互いに肩を貸し合いながら続いていた。さ
門番の一人が槍を構えかけて、止まった。男の腕の中から、外套の端がこぼれている。長い銀色の髪、その下から覗く、銀糸の刺繍もある裂けた青い衣。
「……で、殿下……?」
門番の声が、裏返った。
***
ガルドが詰所から飛び出してきたのは、それから間もなくのことだった。人垣を掻き分け、尊の前で足を止める。尊の腕の中を見て、ガルドの顔から血の気が引いた。
「お前……」
「生きているが、弱っている。すぐに医者を」
ガルドは、何か言おうとして口を開き、何も言えずに閉じた。そして、すこし沈黙したのち振り返って怒鳴る。
「担架を持ってこい! 医者を呼べ! 早く!」
衛兵たちが、弾かれたように駆け出していく。尊は運ばれてきた担架の上に、王女をそっと横たえた。王女が、薄く目を開けた。碧い瞳が、尊を探すように動く。
「……名を........名を、教えて」
王女はかすれた声だった。少しだけ間を置いて答える。
「尊だ」
「……ミコト」
王女は、その名を確かめるように、一度だけ唇で繰り返し、静かに目を閉じた。担架が運ばれていくが見送ることもなく、ガルドの方へ向き直った。
「ガルド」
「……なんだ」
ガルドの声は、まだ震えていた。
「お前、一人で……第一鐘までに戻らなければ、という話はどうした。俺は、何も聞いていないぞ」
「言っていない」
「先に言えと――」
「嘘はついていない」
ガルドは、絶句した。尊は、構わず続けた。
「
頼みがある。今すぐだ」
「……言え」
「街の門を、全部閉めてくれ。北門だけじゃない。東も、南も、西もだ。出る者は、一人残らず改めてくれ」
ガルドの目つきが変わった。
「それから、トマスを押さえてくれ」
「――今か」
尊は、詰所の方を見た。
「もう、泳がせる理由がない」
ガルドは深く頷き、その顎にぐっと力が入る。
「最後に西地区の倉庫に人を出してくれ。看板のない、古い倉庫だ。場所は、俺が教える」
「倉庫……?」
「王女をさらった連中の、街の中の巣だ」
ガルドは、尊の顔をじっと見つめた。そして、何も聞かずに、背後の衛兵たちに向かって叫び始めた。
***
倉庫の中。
低い声の男は、窓辺に立ったまま、駆け込んできた部下の報告を聞いていた。
「北門に、旅人が……王女を連れて戻ったと……!坑道の連中も、術師も、全員縛られて……」
部下の声が、上ずっていた。
「それと、街の門がすべて閉められました。出る者は全員、衛兵が改めております。トマスも、詰所で取り押さえられたと……!」
男は、黙って窓の外を見ていた。街の通りを北から、南から衛兵たちが慌ただしく駆けていく。。その流れが少しずつ、この西地区の方へ向かってきていた。
「……ここへ来るな」
男は、静かに言った。旅人は、この倉庫を知っている。最初の日路地に足跡一つ残さずに、トマスを尾けてここまで来た。衛兵がここへ来るのは、時間の問題だ。部下たちが、心配そうに男の顔を見つめている。男は、地図を思い浮かべた。
この倉庫に、あるいは街のどこかに身を潜め、騒ぎが収まるのを待つ。だが、旅人はこの場所を知っている。街のどこに隠れようと衛兵が一軒ずつ戸を叩いて回れば、いずれ見つかる。トマスが口を割れば、なおさらだ。
また都市内に留まらず門を抜けて、街の外へ逃れる。しかし門はすべて閉められた。出る者は一人残らず改められる。どちらも、駄目だ。
残れば、見つかるし出れば、捕まる。旅人は、こちらに二つの道しか残さなかった。
男は、ゆっくりと息を吐いた。――ならば、どちらも選ばない。
「床を剥がせ」
部下たちが、顔を見合わせた。
「奥の、荷置き場の床だ」
この倉庫を選んだのには、理由があった。
西地区の古い倉庫街の下には、かつての排水路が通っている。街が今の城壁を築くより前に掘られた、石組みの古い水路だ。今ではほとんど使われず、地図からも消えかけている。
その水路は、城壁の下をくぐり、街の外の川へと抜けていた。男は、昨夜の時点で、すでに手を打っていたのだった。坑道からの合図が途絶えた瞬間から念のため、川港で小舟を一艘借り上げ、夜明けから排水路の出口で待たせてある。残るのでも、門から出るのでもない三つ目の道だ。
部下たちが、荷置き場の床板を剥がしていく。その下から、黒々とした石組みの穴が現れた。ひやりとした、水の匂いが立ち上ってくる。男は、机の上の書類の束に火を点けた。
炎が紙を舐めていく。その中に、翼を広げた鳥と冠の印が刻まれた書状があった。男は、公爵家の書状が灰になるまで、じっと見つめていた。それから、懐に一通だけ残した封書を、そっと押さえた。
「行くぞ」
***
北門の詰所の前で、尊は、ロイス商会の手代と向き合っていた。騒ぎの中を、人混みを縫って駆けつけてきたのだろう。手代は、肩で息をしていた。
「主人からです」
差し出された紙片を、手代が小声で読み上げる。
「昨夜遅く、川港にて小舟が一艘、前金で借り上げられた。船頭には夜明けから、西地区の下流、城壁の外の古い排水路の出口で待つよう、言いつけてあったとのこと」
尊は、黙って聞いていた。手代は、紙片を畳みながら、言葉を添えた。
「主人が、こう申しておりました。――二日前にお頼みの件、お見込みの通りでした、と」
二日前。ロイス商会の二階で、炭焼きの控えを見せてもらったあの日、尊は帰り際に、もう一つだけ頼んでいた。
――これから数日の間に、街の中で、急に船や馬を借り上げる者がいたら、知らせてほしい。それも、名乗らず、前金で。あの時のロイスは、何も聞かなかった。ただ、静かに頷いただけだった。
「……やはり、その二つは嫌ったか」
小さく呟いた。残れば、見つかる。門を出れば、捕まる。あの男が、そのどちらかを選ぶはずがなかった。
警戒すれば止まる。だが、止まれば見つかると分かった時、あの男はこちらが用意した道を必ず嫌う。人の道は、いつも向こうが作ってきた。ならば追い詰められた時あの男が選ぶのは、こちらが作っていない道だ。
それが川。あの男は、最初から物の流れを読んで、物の流れの中に隠れてきた。耐火石を運び、炭を運び帳簿を書き換えた。最後に逃げ込むのも、物が通る道だろうと思っていた。だから、船を見張らせた。
「ガルドには」
手代が、恐る恐る尋ねた。
「知らせますか」
尊は、首を振った。
「衛兵は、倉庫へ向かっている。あれでいい」
衛兵が倉庫に踏み込めば、あの男は排水路へ逃げ込むしかなくなる。背中を押すのは、衛兵の役目だ。
出口で待つのは――。尊は、刀の柄に手を添えた。
「俺が行く」
***
城壁の外、西の川べり。朝靄が、まだ水面に漂っていた。
城壁の石組みの根元に苔むした鉄格子が嵌まった、古い排水路の出口がある。格子の一部は錆びて外れかけ、その隙間から細い水が川へと流れ出していた。
その少し下流の葦の陰に、小舟が一艘繋がれていた。船頭は、尊の顔を見るなり、怯えたように竿を握りしめた。尊が懐から、ロイス商会の木札を見せると、船頭は目を丸くし、それから黙って頷いた。
「指示を出すまで舟を出すな」
「へ、へい……」
尊は、排水路の出口の脇の、石組みの陰に身を沈め《高天眼》を開く。城壁の向こう、石組みの水路の奥。蒼が、一つ、二つ、三つ近づいてくる。水を蹴るかすかな足音が、石の壁に反響していた。
その三つのうち、一つだけ。静かで迷いがなく、揺れの少ない流れ。命令に慣れた者の蒼だ。倉庫の板壁の向こうで、何度も聞いたあの低い声の主だ。
尊は、目を閉じた。一度も、顔を合わせないまま何度も読み合いを行った。俺とやり合った男はどんな顔をしているのだろうか。錆びた鉄格子が、軋む音がした。
外れかけた格子の隙間から、一人の男が身を屈めて這い出してくる。続いて、もう一人。
そして、最後に。背の高い痩せた男だった。年の頃は、四十の半ば。灰色がかった髪を短く刈り込み、頬に古い刀傷が一筋走っている。目立たない旅装に、腰には使い込まれた剣。
男は、朝靄の中で立ち上がり、葦の陰の小舟の方へ目を向けたそこで、動きを止めた。小舟が、動いていない。
船頭が、竿を握ったまま、こちらを見ようともしない。
男の目がゆっくりと、石組みの陰へ移った。
そして尊はゆっくりと立ち上がり朝靄の向こうで、二人の目が初めて合った。男の部下たちが、慌てて剣に手を掛けるが、片手を上げてそれを制した。
川の流れる音だけが、静かに続いていた。そして沈黙の後、男が口を開く。
「……門も、街の中も、塞いでおいてここだけは、空けておいたのか」
刀の柄に手を添えたまま、答えた。
「お前なら、三つ目の選択肢を自ずから導き出すと思った。」




