第10話 帳簿の外
翌朝、尊は北門の詰所の裏手にいた。
ガルドは、周囲に人がいないことを確かめてから、分厚い帳面を差し出した。
「門の通行記録だ。持ち出しは禁じられている。ここで見ろ」
尊は頁を受け取ったが、並んだ文字は相変わらず読めない。
「……読めないのか」
「ああ」
ガルドは小さく嘆息し、帳面を引き取って指でなぞった。
「殿下が消息を絶った日だな。第三鐘の少し後――黒塗りの二頭立て馬車、一台。所有はベルナー商会。積荷、炭。行き先、北街道沿いの炭焼き小屋」
ベルナー商会。炭。
昨日の炭屋の帳簿と、ぴたりと重なる。
「馬の記載は」
「黒毛二頭」
「御者は」
「ベルナー商会の雇い人、とだけある」
ガルドは、さらに別の綴りを取り出した。
「お前の話を聞いて、こちらでも調べておいた。馬車工房の売買記録だ。半年前、ベルナー商会が黒塗りの馬車を一台買い入れている。工房の印も押してある」
尊は、二つの記録を見比べた。読めない文字の並びが、それでもきちんと揃っていることだけは分かる。門の通行記録。炭屋の帳簿。馬車工房の売買記録。三つの記録が、同じ話をしている。
黒い馬車はベルナー商会のもので、あの日、炭を積んで北へ向かった。それだけの話だ、と。
「……ガルド」
「なんだ」
「その日の門の記帳は、誰が書いた」
ガルドは、頁の端に目を落とした。
そして、黙り込んだ。
「……トマスだ」
尊は、何も言わなかった。ガルドの顎に、力が入る。
「動かないでくれ」
尊が先に言った。
「分かっている」
ガルドは、低い声で答えた。
「分かっているが――腹は立つ」
***
詰所を出ると、リオが壁にもたれて待っていた。話を聞くと、リオは腕を組んで唸った。
「なあ兄ちゃん。全部、ベルナーって書いてあるんだろ?」
「ああ」
「門の記録も、炭屋も、馬車屋も。三つとも同じこと言ってるなら……それ、本当なんじゃねえの?」
尊は、すぐには答えなかった。それが、偽装の厄介なところだった。
一つの記録なら、疑える。だが三つの記録が揃えば、人は信じる。揃っていること自体が、証拠のように見える。それに、筋も通っている。
ベルナー商会の黒い馬車が、炭を積んで北へ向かった。王女の失踪とは何の関係もない、ただの商売。だとすれば、自分が追ってきたものは何だったのか。旧道で拾った銀の金具は、別の何かから落ちたもので。白い耐火石は、どこかの物好きが窯を組んでいるだけで。
あの倉庫の男は、本当にただ、炭を運んでいただけで――。
「……兄ちゃん?」
尊は、自分が立ち止まっていたことに気づいた。ほんの一瞬だった。だが確かに、揺らいだ。
――上手い。嘘を一つ混ぜるのではない。尊が辿ってきた道筋を、そっくりそのまま、別の答えへ繋ぎ変えてある。
尊は、息を一つ吐いた。
「リオ。あの日見た馬車の馬、覚えているか」
「馬?」
「毛の色。脚。何でもいい」
リオは、眉を寄せて考え込んだ。
「えーっと……黒っぽかった、と思う。速かったし、よく見えなかったけど」
「そうか」
「あ、でも」
リオが、ふと顔を上げた。
「片方の馬、足が一本だけ白かった。前の、右か左か……どっちかの足だけ、靴下はいてるみたいに白くてさ。変な馬だなって思ったんだ」
尊は、リオを見た。
「確かか」
「うん。それで覚えてる」
門の記録には、「黒毛二頭」とだけあった。足の白い馬のことは、どこにも書かれていない。だが、書き忘れただけかもしれない。記帳した人間が見落としたのかもしれない。これだけでは、まだ足りない。
「……確かめに行く」
「どこに?」
「ベルナー商会の蔵だ」
***
炭屋の帳簿によれば、ベルナー商会へ納めた炭は、東の屋敷町の蔵へ届けられている。尊は、正面から行くつもりはなかった。昨日の荷揚げ場で、人手が足りない日はいつでも来い、と親方は言っていた。
そして炭屋は、今日も屋敷町へ炭を運ぶ。昼前、尊は炭俵を背負い、炭屋の荷車の後ろについて、ベルナー商会の蔵の裏門をくぐっていた。
刀は、荷車の下に布で巻いて隠してある。蔵の前には、広い中庭があった。荷車が何台も並び、その奥に、厩と馬車置き場が見える。
尊は炭俵を下ろしながら、中庭を見渡す。馬車置き場の一番奥に、黒塗りの馬車が一台、停められていた。二頭立て。半年前に工房から買い入れたという、あの馬車だろう。
尊は、次の炭俵を取りに荷車へ戻る途中、その横を通った。足は止めない。目だけを、車輪へ落とす。車軸の端に、銀色の金具が嵌まっていた。左右、どちらの車輪にも。欠けているものは、一つもない。
形も違った。尊の懐にある金具よりも厚く、装飾も簡素だった。翼を広げた鳥も、冠も、どこにも刻まれていない。尊は、次の炭俵を担いで、再び中庭を横切った。今度は、厩の前を通る。
黒い馬が、二頭。どちらの脚も、蹄まで真っ黒だった。尊は、炭俵を蔵の中へ運び入れた。蔵の床には、炭の粉が黒く積もっていた。荷車の轍も、馬車置き場の床も、黒く汚れている。白い粉は、一粒もない。
***
最後の炭俵を下ろした頃には、すべてが繋がっていた。この蔵の黒い馬車は、あの日の馬車ではない。金具は欠けていない。紋章もない。馬の脚に白はない。轍に残っているのは炭の黒で、耐火石の白ではない。
そして、何より――。
尊は、荷車の脇に積まれた炭俵を一つ、片手で持ち上げた。軽い。炭は、軽いのだ。
あの旧道の轍は、二頭立ての馬車にしては深すぎた。人足たちが運んだ耐火石は、二頭の馬が喘ぐほど重かった。炭を積んだ馬車が、あれほど深い轍を刻むはずがない。門の記録も、炭屋の帳簿も、工房の売買記録も。書かれたものは、いくらでも揃えられる。三つが揃って、綺麗に同じ話をしていた。
だが、馬の脚は書き換えられない。欠けた金具は、元には戻らない。荷の重さは、帳簿の上では消せても、土の上では消せない。
尊は、懐の中の金具に触れた。翼を広げた鳥と、冠。あの倉庫の男は、「現物を知っている」と言った。
なら、偽の馬車にこの紋章を刻むことはできなかったはずだ。刻めば、本物の持ち主に辿り着かれる。
だから、紋章のない別の馬車を用意するしかなかった。完璧な偽装に、たった一つ、穴が空いている。穴を空けたのは、リオが拾ったこの金具だった。
***
帰り道、尊はリオに、蔵で見たものを話した。リオは最後まで黙って聞いて、それから小さく呟いた。
「……俺が覚えてた馬の足、役に立ったんだ。金具も、俺が拾ったやつ」
「そうだ」
リオは、少しだけ誇らしげに鼻を擦った。それから、ふと真顔になる。
「じゃあ、ベルナーって人は?」
「たぶん、何も知らない」
尊は、夕暮れの屋敷町を振り返った。
「名前を使われただけだ。もし俺が詰所へ駆け込んでいたら、あの男が王女をさらった犯人になっていた」
リオが、ぞっとしたように肩をすくめた。本当の馬車は、炭ではなく石を運んでいた。北の旧道から採石場へ、そのさらに奥の森へ。人足たちが荷を下ろしたという、森の手前の空き地。その先は、向こうの人間が運んでいった。
炉は、北の森のどこかにある。尊は、北の空を見た。森は広い。尊一人で歩いて探せば、何日かかるか分からない。さらに期限まで、あと六日しかない。
それに、向こうは見張りを置いているはずだ。旅人が一人、森をうろつけば、すぐに気づかれる。
一人では、足りない。人が、要る。
***
灰色の外套の男の報告に、低い声の男は、長く沈黙していた。
「……炭屋の人足に紛れて、蔵へ入った」
「はい。炭俵を運びながら、中庭を何度か行き来しておりました」
「何を見ていた」
「馬車置き場と、厩の前を通っておりました。足は止めていません」
男は、目を閉じる。足を止めずに通り過ぎた。だが、二度通った。馬車置き場と、厩。たのは、車輪の金具と、馬の脚だ。
「……金具か」
ぽつりと、男は呟いた。偽の馬車に、本物の紋章は刻めない。刻めば、こちらの尻尾を自分から差し出すことになる。分かっていて、紋章のない馬車を用意した。それが唯一の穴だと知ったうえで、帳簿で塞いだつもりだった。
あの旅人は、帳簿を一頁も読まずに、その穴だけを見に行った。
「どういたしますか」
男は、目を開けた。
「旅人は、炉が北の森にあると気づいた。だが、森は広い。一人では探しきれん」
「では――」
「一人では、だ」
男は、窓の外の夕闇を見つめた。
「あれは、一人で終わらせる人間じゃない。必ず、人を動かそうとする」
部下が息を呑む。
「森の東側に、もう一つ拠点を作れ。人が出入りしている跡を残しておけ。荷車の轍も、焚き火の跡もだ」
「囮の拠点、ですか」
「人を動かせば、人は目に見えるものから探す」
男は、静かに言った。
「なら、見せてやればいい」
***
リオの家の土間で、尊は目を閉じていた。寝台の方から聞こえる咳は、昨日より少しだけ間遠になっている。薬が効いているのだろう。
尊は、頭の中に地図を描いた。北門。旧道。採石場。その奥に広がる、森。
一人では探せない。だが、衛兵を動かせば、トマスを通じて筒抜けになる。
ならば、衛兵ではない何かを。それも、尊が命じたと誰にも気づかれずに。
――人を動かすなら、命じなくていい。人が、自分で動きたくなるように、置いてやればいい。
尊は、懐の木札に指を触れた。ロイス商会の印が、指先に硬く当たった。




