第13話 月夜鴉は花を抱けず
青淵の頭脳を打ちくだいた軍功。黒曜皇帝・玄海が下した報償は、帝国の歴史をゆるがす異例のものだった。
大広間の冷やりとした大理石に片膝をつく十七歳の黎。その首に、重厚な黒曜石の首飾りが掛けられる。
千人将の証。
居並ぶ重臣たちの視線がいっせいに黎の背へ突き刺さる。
異形の血をひく害獣が軍を率いるなど帝国への冒涜──無言の殺意と嫉妬が空間を満たしていた。
黎は漆黒の瞳でそれらを冷たく受け流し、床に置かれた重い金貨の革袋をつかみあげた。
「今宵は我が影への特別の報償だ。ぞんぶんに英気を養うがいい」
玉座の玄海が、意味ありげな低い笑い声をひびかせる。
黎は限界まで酷使した肉体を休めろという命令と受けとり、沈黙のまま一礼して大広間を後にした。
*
あてがわれた千人将の私室。血と泥にまみれた鉄甲冑のとめ具をはずしながら、重い黒檀の扉を押し開けた瞬間だった。
黎の鼻腔を、濃密な異臭が襲う。
戦場の鉄錆や腐臭に慣れた 嗅覚が、強烈な芳香を放つ 麝香 の匂いをとらえた。
ここは安息の地ではない。新たなワナの底だ。
薄暗い室内。緋色の豪奢な 天蓋を備えた寝台に、数人の女たちが座していた。
金糸を織りこんだ極彩色の薄絹。肌をおおう分厚い白粉。
唇はぬられた紅で赤々しく濡れている。
女たちの瞳に宿るのは、新参の異端者を値踏みし、からめとろうとする冷酷な計算の光だった。
黎の背筋が緊迫感で跳ね上がる。右手は自然と腰の剣の柄へ伸びていた。
「あら、千人将様。そのように入り口で立ち尽くして、どうなさったのですか」
寝台からすべり出た女たちが、足音もなく黎をとり囲む。薄絹がすれ合うかすかな音が、静寂の中にひびく。
「……ここはなんだ。俺の部屋ではないのか」
「あなた様の私室で間違いございません。私どもは今宵、お疲れを癒やすよう言いつかっております」
甘い香気とともに、白い腕が黎の首や肩へ伸びてくる。
首飾りの重みの上に重なる、新たな枷。黎の背筋を、不快な悪寒がはいあがる。
首筋に触れた女の指先は熱を帯びているが、そこには生気がない。香炉から立ちのぼる紫煙が、黎の胸を内側から圧迫する。
あばら骨の奥で、別の感覚が鮮明によみがえった。
雨あがりの湿った土の肌ざわり。川縁でゆれる青草。
出雲の存在だ。
彼女は人工の香りを身にまとわなかった。
ともに泥に汚れ、野山を駆けまわり、太陽を吸いこんだ温かく清らかな空気。最後に抱き止められた時に伝わってきた、まっすぐな熱。
いま目の前にある不自然な温もりが、黎の胸の奥でくすぶる渇きを鋭くとぎ澄ましていく。
「……触るな」
黎は低く吐き捨て、肩に触れていた腕を払い落とした。
それほど力を入れたわけでもないのに、獣の力に弾き飛ばされた女が床に膝をつく。
「出て行け。用はない」
黎の視線は絶対零度の冷気を放っていた。
「……まぁ、素っ気ないお方。私どもを追い出せば、上官へのお手配が無駄になりますよ」
「俺を監視したいなら、外に兵を置け」
床に伏せた女が、嘲りをこめた笑みを浮かべて顔をあげた。
「これだから野蛮な血は……人間のあつかい方もご存じないのですね」
毒をふくんだ言葉とともに、女が冷ややかな視線で立ちあがる。
向けられるのは、獣を珍しがる無遠慮な好奇とさげすみ。
相手が半獣だと知った上ではべらされているのだ。
厚い雲がとぎれ、窓から射しこんだ冷たい月光が黎の顔半分を切りとった。
「人間のあつかい、か」
黎のつぶやきに合わせ、瞳孔が縦一文字に細く収縮する。首筋から耳裏にかけて、漆黒の硬質な羽毛が皮膚を突き破って生えそろっていった。
右手の血管が黒く脈打ち、指の関節が異常な音を立てて延伸する。爪は黒く尖り、鋭利な鉤爪へと変貌をとげた。
「ひっ……!」
女たちの顔から一瞬で血の気が引いた。その赤い唇から、おびえた呼気がもれる。
「化け物……!」
恐怖にゆがむ顔。後ずさる足どり。その目に浮かぶのは、害獣に対する絶対的な拒絶だった。
千人将という肩書きをはぎ取れば、残るのは忌まわしい異形。
人間たちが抱く根底の蔑視に、胸の奥が冷えていく。
戦場よりも深い疲労感が、骨の芯まで染みこんでいく。
「解ったら、さっさと失せろ」
黎が手をひと振りすると、女たちは悲鳴を噛み殺し、乱れた裾をつかんで逃げ出していった。
重い黒檀の扉が大きな音を立てて閉まる。
暴力をふるわけにいかぬ外敵が眼前から消えた安堵と戦い疲れで、肺の底から深く長いため息が吐き出された。
黎は豪奢な寝台へ歩み寄り、そこに敷かれた極彩色の褥をつかみあげた。鼻を近づけると、嫌悪感で眉間がゆがむ。
「香炉の臭いが染みついている。……出雲の作ってくれた草の寝床の方が、ずっとマシだ」
室内の香炉を足で踏み消し、締めきられていた高窓をすべて開け放つ。
夜気が室内になだれこみ、人工的な香気を外へ追い出していく。
黎は甲冑の金具を外して床へ投げ捨てた。
照明の行燈をひとつだけ足元へ置き、剣を抱えたまま露台の壁際へ背をあずける。
大理石の冷たさが、背中から興奮した熱を奪っていく。
どれほど武功を立てようと、千人将の座を得ようと、体に流れる鴉の血は消えない。
人間の女から見れば、自分は禍いをもたらす害物でしかない。産みの親すら恐れて捨て去ったほどの。
あの清らかな少女と過ごした時間は、分不相応な出来事だった。
ただひとり、自分を人間の男として頼りにしてくれた者がいた。それだけで十分だ。
(……既望に託して正解だった。あいつの隣に立つ資格など、はなから俺にはない。)
自嘲の息をはき、黎は血の臭気の残る手で顔をおおった。
──それでも。
黎は夜空に浮かぶ月を鋭く見すえた。
青淵の焼かれた村々では、皇帝の制止を無視した下層兵による略奪が続いている。領地を渡したところで、領民が無事にすむ保証はない。
灰霄領に向かった出雲の側には、霊術の長けた恩師の既望がいる。その事実だけが、いまの黎をつなぎ止めていた。
──自分は武功を重ねるしかない。皇帝の喉元に届くほどの力を得なければ、あの土地を守る権限など手に入らない。
遊戯に興じる時間など、どこにもなかった。
大窓から吹きこむ風が、硝煙と夜の草木の匂いを運んでくる。
足元の行燈がゆれ、遠い日の囲炉裏の火影を思わせた。
壁に背をあずけたまま、まぶたを閉じると、闇の向こうに、雪の散らつく山で身を寄せ合った夜の記憶が浮かびあがる。
この手を握ってくれた、手元に残る彼女の体温と質感。その温もりを抱えたまま、黎は深い眠りの中へ沈んでいった。
<タイトル/慣用句>
月夜鴉:
月夜に浮かぶ黒い鴉。暗闇に隠れられず、姿がはっきりと見えてしまう孤独な存在を象徴。または、月夜に浮かれて鳴くカラスのこと、およびそれを転じて夜遊びに浮かれ出る人の比喩。
花を抱けず:
美しい花(愛や理想、麗しいもの)に憧れながらも、自分の境遇や性質ゆえにそれを胸に抱きしめることができない叶わぬ想い。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n0b0fd4b9ffb7




