第11話 孤月に雲泥の待雪草 ー出雲Sideー
胸の奥に広がる空洞が、美しく巨大な檻に囚われている事実を突きつけてくる。
世界の中点に座す小高い八光丘。その頂にそびえる精霊殿の書庫で、出雲は冷たい白磁の壁に背をあずけていた。
天井まで届く紫檀の書架。圧倒的な書物の壁が、外界の喧騒を完全に遮断している。
出雲は毎朝、地下の泉で冷水に身を沈めて禊を行い、表御殿での祈祷訓練を終えると、斜陽が差しこむ時刻にこの書庫へ身を寄せていた。外の世界を知る手がかりを文字から探すためだ。
そうして頭を埋めていなければ、あてもなく烏丸を探す旅へ飛び出してしまいそうだった。
ふと、昼に裏御殿で出された食事を思い出す。
富裕層からの奉納金と、広大な敷地内で育てられた自家栽培の作物で成り立つこの神域では、給仕を担当する神官たちが腕をふるった清廉な食膳がならぶ。
八色の野菜と豆腐を澄んだ出汁で煮込んだ、肉のない精進料理。
だが、噛みしめるほどに、出雲の口内は野山で烏丸と囲んだたき火の味を求めた。
直火であぶった獣肉の焦げた脂、塩をふっただけの川魚の香ばしい匂い。
それらを思い出しては苦笑する。
烏丸がこの清潔な神殿に連れて来られたなら、一日ともたずに獲物を狩りに外へ飛び出していくだろう。
窓の外から、甲高い横笛の音が風にのって流れてくる。
中庭の祭壇で絶え間なく奏でられる音色。陽が落ちれば弦の音へと変わり、夜明けまでとぎれることはない。
「主上は、今日もずっと演奏を続けていらっしゃる……」
当代の月守、篝月白 望。
出雲と同じ十代半ばの容姿でありながら、その白銀の髪は陽光を弾き、空気中に虹色の霊子を光の粒として散らせている。
あの音色は愉楽ではない。各地の戦乱で死んでいく無数の魂を鎮め、天象の荒ぶりを抑えこむための、ほぼ不眠不休で捧げられる神事だ。
心を乱したまま表御殿に入ってはならぬ——神官長たちの言葉が耳の奥でひびく。
生身の人間が宿す「魄命力」の微細なゆらぎすら、月守の霊眼は一瞬で見透かす。
心身に秘めた偽りや惑いを直視されるからこそ、地下の冷たい泉に身を沈めて思考を洗い流してからでなければ、謁見の間に足をふみいれることすら叶わない。
月守は、すべての血脈を統べる魄命力をもつ。錬丹術により天象を動かし、霊術によって鎮魂し、時空間を伝播する波長で霊獣を使役する。
出雲の目には、その存在そのものがこの世の理を超越した不可侵の神域に見えた。
書庫の格子窓の外、血のような赤に染まる夕空を、黒い翼の群れが横切っていく。
鴉の半獣たる烏丸の翼に比べればあまりに小ぶりで弱々しい、ただの野生の鳥だった。
「烏丸も、生きているよね……どこでこの夕焼けを見ているのかな」
ぽつりとつぶやいた言葉が、無機質な部屋に沈んでいく。
この精霊殿には、出雲の故郷である灰霄領出身の神官もわずかに残っていた。
だが、同胞との再会に喜んだのも束の間、彼らと会話を交わすことは叶わなかった。
帝国軍の侵攻を受け、霊術や錬丹術の兵器化を迫られて凄惨な拷問にかけられた者たちだ。
出雲が話しかけても、ある者はうつろな瞳でただ震え、ある者は切りとられた舌の根を指さして声を詰まらせるだけだった。
烏丸や既望に守られ、五体満足で生きのびた自分がどれほど僥倖であったかを思い知らされる。
胸を突く痛みをまぎらわすように、出雲は書庫の梁を見上げた。
格子状の白い天井には、巨大な望月をとり囲む五霊獣の壮麗な絵画がほどこされている。
水と風を司る応竜の長大な身躯と巨大な翼。
七色の帯のような尾羽を広げる鳳凰。
幼い日、嵐のうなり声におびえる自分へ「精霊が無邪気に遊んでいるのよ」とほほえみかけた母の温もりを思い出す。
その横には、神官に教わった見なれぬ霊獣たちがいた。
岩土の化身である霊亀の重厚な甲羅。
草木の霊気から生まれる麒麟の白い鱗。
そして、九本の尾を優美に踊らせる霊狐。
白狐の絵画に目をとめた瞬間、森で熊を追い払ってくれた既望の半獣姿が記憶をかすめた。
しかし絵画の中の霊狐は、裂けた巨大な顎と鋭利な眼光をもち、神聖でありながらおぞましい捕食者の異彩を放っている。
「……あんな恐ろしい霊獣たちを、主上はどうやって操るのだろう」
慈悲深くはかなげな少女の姿からは、猛禽や巨獣を伏せさせる威圧感など想像もつかない。
出雲は手元にある最古書『月魂記』へ視線を落とした。
百を超える巻数がならぶ、この世の歴史を網羅した史書。
ひび割れた古紙の扉に、色あせた墨で記された冒頭の一節がある。
『 天をめぐるは三つの恒星。
昼を抱く黄金の太陽。夜を抱く白銀の双子月。
その二つの月より芽ぐりし、瞳髪に白銀を宿す月魄の精霊神。
滅びゆく修羅之世を憂いし神は、双子の神子となりて人を象る。
奈落の底より死霊を掬いあげ、人柱となりて冥界を鎮むる兄の巫。
月守の号を打ち立て、輪廻めぐる世を開きし妹の巫女。
人の魂は散りて月へと還り、再び世へとつむがれる。
───ゆえに、万物の魂魄を月魂、
巫女の力がおよびし双子月の領域を、月魂之世と称す。 』
指先が古文書の文字の上で止まる。
「……月守様には、双子の兄がいたんだ」
つぶやいた声が、静寂に吸いこまれる。
血を分けた半身を失い、それでも悠久の時を生き続ける精霊神。
出雲の網膜に、みずから死地へ向かった烏丸の背中と、既望の姿が焼きつく。
独り残された痛みと妹巫女の姿が重なり、胸の奥が熱くうずいた。
*
宵の儀式を前に、日中の祈祷と禊を終えた月守が、二弦の擦弦楽器を手に庭の祭壇へ歩みを進める。
湿った土と青臭い生葉の匂いが、冷気とともに庭園の裾をはっていた。
白砂利の敷かれた回廊から三歩退いた境界。そこで静寂に身を沈める月守の背を、出雲は見つめていた。
神官たちは影を踏むことすら恐れて遠巻きにかしずいている。
だが、出雲は背中に刺さる視線をふり払い、ためらうことなく月守の側へと歩み寄った。
「主上。黒曜皇帝は領土をむさぼり、兵たちは他者の肉をひき裂き合っています。見下ろす下界は火の海です。なぜ人々は、あれほど争うのでしょうか」
月守はふり返らない。白銀の髪が風にゆれ、氷彩を放つ目線は、分厚い雲の下でくすぶる紫煙を一直線に見下ろしていた。
「人生は短い。ゆえに執着を燃やす。私はそれを愛おしいと思うてきた」
十代の可憐な口元からもれる声は、膨大な歳月をのみこんだように重くひび割れていた。
「ですが! 院外で多くの子供たちが焼き払われています。なぜ主上は争いを止めないのですか。神とは、これほど冷酷なものなのですか」
抑えきれぬ激情に喉を震わせ、一歩ふみこむ出雲に対し、月守の白銀のまつ毛が静かに落ちた。
「月守が憤怒にのまれれば、その毒は万物へ伝播し狂わせる」
世界をつなぎ止める柱である月守の言葉が、氷の針となって出雲の胸を刺す。
「たび重なる精霊殿の訓戒に対し、皇帝は私が院外にふみ出すことを禁じた。……望月は必ず欠けるもの。皇帝の死と老いを待つほかはない」
突き放す宣告。出雲は下唇を噛み、両拳を固く握りしめた。
(では、今ふみにじられている命はどうなるのか......!)
神の長命な時間軸では待てても、人間の一生はまたたきだ。皇帝が枯れるのを待つ間に、無数の命がついえる。
その血の海の中に、烏丸も既望ものみこまれてしまう。
言葉を失う出雲をよそに、月守は膝上に二弦楽器を抱え、静かに弓を添えた。
黎明の刻まで続く鎮魂の奏調。
「……出雲。主上の御勤めをさえぎってはいけない。下がりなさい」
背後からおだやかに声をかけたのは、青髪の神官長・稲佐だ。
出雲は深く一礼して数歩下がる。
一拍の静寂の後、月守の指がすべり、哀切な弦の音が夜気をふるわせ始めた。
たたずむ出雲の背を、稲佐の手がそっと包みこむ。
「弦を抑える主上の指をごらんなさい」
耳元でささやかれ、出雲は月守のたたずまいに視線を向けた。
楽器を抱える白く細い左手の指先は、皮膚が硬く潰れて変形している。
「私はここへ来て五十年の月日が流れたわ。主上がまだ幼なげな面影を残す頃からお仕えしているけれど、当時は手先から血と涙を流しながら弓を引いていた。そうやって延々と、死者の魂を弔い続けているの」
「そんなに、ずっと……」
「主上が犠牲者になにも感じぬはずがない。乱世で長く生きれば、その分、抱えこむ苦しみも人より増していく」
ハッとする想いで出雲は月守の細い背中を見つめ直した。
演奏の合間、月守は誰もいない空へ視線を漂わせ、慈しむようになにかを追う。その霊眼には、散っていった無数の魂が映っているのか。
「貴女も『月魂記』を読み進めているわね」
「はい……まだ数巻ですが」
「新人に史書を読ませるのは、主上の記憶と孤独を理解するため。月守が人世を救おうとして世界を壊しかけたり、あるいは落命し、かえって人界へ混乱をもたらした史実もある。神の人世への介入は、それほどまでに惨劇と背中合わせなの」
神官最高齢である稲佐の言葉は、優しくも重い事実となって出雲の胸底に沈む。
出雲が覚える憤りなど、彼女たちは数えきれぬ歳月の中で何度も噛みしめてきたのだ。
それでも、十六歳の出雲には、なにもなさずに俯くことなどできなかった。
月守の憂いと諦観を見届けた出雲は、みずからの手で静かな反逆を起こす。
*
数日後、完璧に整えられた庭の隅へ一直線に向かうと、花壇へ両手を突っこみ、冷たく硬い土を力まかせに掘り返した。
神官長へ幾度も頭を下げ、外界からひそかに買い受けた待雪草の緑の苗をとり出す。
泥と血にまみれて自分を守ってくれた、烏丸の不器用な手が鮮明に脳裏をかすめた。
回廊を通りかかった白衣の神官たちが、眉をひそめて足を止める。
塵ひとつない清浄な空間と、土に汚れた出雲の白装束。
交わることのない二つの世界が、そこに一筋の境界線を刻んでいた。
出雲は彼らの冷淡な視線を真っ向から射ぬき、毅然と言い放った。
「これは雪の中でも春を告げる、希望をもたらす花です。人々が前向きに生きられるように、世界の中心に植えています」
烏丸や既望との記憶をつなぐ、たった一つの欠片。
変化を拒絶する完璧な神域に対する、ゆずれぬ意思。
「この花が咲くのも、家族の帰りも、私はここで待ち続ける」
断固とした口調とともに、小さな拳で力強く土を押し固める。
『希望』か、あるいは『君の死を望む』か。
二つの意味を宿した球根が、精霊殿の無機質な土の奥深くへ、爪を刻む勢いで根を張っていく。
その土にまみれたかたくなな背中を、月守は御簾の奥から、愛おしさと底知れぬ憐れみをこめて静かに見下ろしていた。
<タイトル/慣用句>
孤月:
夜空にぽつんと寂しく、しかし鋭く冴えわたって輝く一つの月。
雲泥:
雲と泥。非常に大きな隔たりや、高い・低いなどの大きな差のこと。
待雪草::
雪を待つのではなく、雪をとかすように、あるいは雪の中で春を待つようにして咲く「スノードロップ(雪の雫)」のこと。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/nae5042b51dfb




