第10話 月日変われば鴉も変わる
黎黒城の最奥。剥き出しの黒岩をうがった地下修練場に、硬質な打撃音が弾け飛ぶ。
松明の炎が石壁に巨大な影をゆらす中、黎は己の背丈ほどある重い鉄剣をふりあげた。
手の皮はとうに破け、柄に巻きつけた麻布は、凝固したどす黒い血と汗でべっとりと張りついている。
(あの清廉な光り輝く場所へは、二度と戻れない)
退路を断ち、胸を焼く焦燥だけが、限界を超越した肉体を動かしていた。
出雲の元を去り、『黎』の名を賜り、烏丸の名を捨てて帝国軍の養成施設へ身を投じて数ヶ月。
泥臭い武の極致へ至り、絶対的な暴力の盾となる。人の姿のままで力を得る。それ以外に、自分が生きる道はない。
「腰が浮いているぞ、黎」
背後からひびく低い声。直後、背筋を凍らせるような殺気がはしった。
黎が反射的に身をひるがえすより早く、死角から極太の木剣がなぎ払われる。右の脇腹に、骨がきしむにぶい破砕音がひびいた。
「うッ……!」
肺から強制的に空気がしぼり出される。硬い石床を無様に転がり、口の中にあふれた鉄の味を吐き出した。
「立ち上がれ。戦場の刃は、お前の呼吸が整うのを待ちはしない」
漆黒の毛皮を肩に掛けた帝国皇帝、玄海。
見下ろす巨躯から放たれる闘気は、冷えきった地下の空気すらも平伏させるほどの圧倒的な質量をともなっている。
黎は折れそうな膝を打ちすえ、血を吐き捨てて立ちあがった。
視界が明滅し、耳の奥で心臓が警鐘を鳴らす。それでも、この双眸に見放されることだけは避けたかった。
再び居場所を失い、力を得る道も絶たれれば、遠く離れた出雲たちの平安も守れない。
「……まだ、やれます」
「口先だけは一丁前だな」
玄海の口角がわずかに吊りあがる。直後、暴風雨のような連撃が襲いかかった。
鉄と木。材質の差を完全に凌駕する暴力的な打撃音が連続して鳴りひびく。
一撃を受けるたびに、黎の全身の骨格が悲鳴をあげる。ふみとどまる石床に、新しい血の足跡が次々と焼きついていった。
(半獣でもないのに、なぜこの男はこれほど強い......!)
速さ、威力、剣術の巧みさ。どれをとっても、今の自分には敵わない。
腕力だけは自信があったはずが、毎回の修練で、手も足も出ないほど玄海の攻守に圧倒されていた。
非力さと敗北感に打ちのめされながらも、倒れるたびに立ち向かい、息の続くかぎり打ちこむ。
だが、その決壊は、とうとつに訪れる。
玄海の渾身の払いが、黎の鉄剣を弾き飛ばした。岩壁に激突した鉄剣が甲高い音を立てて火花を散らす。
その瞬間、黎の肉体が限界を超え、封じ込めていた呪われた血が暴走を始めた。
「ア、ァァ……ッ!」
背中の皮膚が、内側からひき裂かれる。生温かい鮮血とともに、漆黒の羽毛が数枚、石床へ舞い落ちた。制御不能な獣性が顕現していく。
黎は両手で顔をおおい、石床にはいつくばった。
己が醜い化け物へなり下がる恐怖。それを、自分を拾いあげてくれた玄海にさらけ出す激しい羞恥。
鋭く伸びた爪が石床を深くえぐり、荒い過呼吸が冷たい空気をかき乱す。
──殺される。そうでなくば、見捨てられる。
幼少期からの記憶に刻まれた冷遇と排斥。その忌まわしい本能が、頭のなかで警鐘をうち鳴らす。
指先から血の気が引き、全身の末端が氷のように冷えていく。
その時、視界が不意に完全な闇に閉ざされた。
玄海が身をかがめ、自身が羽織っていた分厚い黒毛皮の外套を、黎の頭上から手荒にかぶせたのだ。
「俺の脆弱な息子たちより、お前の方が出色だ」
毛皮の内に満ちる、濃密な血と獣の臭い。そして、絶対的な覇王の体温。
「己の内の獣を恐れるな。それは呪いではない。お前という器を満たす、純粋な力だ」
今まで受けてきた拒絶とは根底から異なる反応に、黎は驚きに目を見ひらく。頭上から降る声は、ひどく静かで、重厚だった。
「皇帝陛下……俺は、人の姿では、あなたを守ることも……」
「誰が守れと言った」
毛皮ごしに、玄海の巨大な掌が黎の頭をわしづかみにする。
「お前は俺の影だ。光の行く手をはばむ泥を、足元ですべて喰らいつくすのが影の役目だ。強くなれ、黎。お前がその牙をとぎ澄ますかぎり、俺がお前のすべてを肯定してやる」
頭蓋を砕きかねない強い指の圧力。そこに憐憫はない。あるのは、力ある異端の獣をみずからの手駒として取りこむ、冷徹で強烈な所有欲だけだった。
だが、社会で疎まれ孤立して生きてきた黎にとって、それは魂の救済に他ならない。
これまでの人生で受けてきた、冷淡な軽蔑をともなう暴力や、人間でない生き物への無関心とはまるで違う。
この男は、自分の中の化け物を「必要だ」と言いきったのだ。
黎の胸の奥で、忠誠という生ぬるい言葉を焼きつくす、狂信の炎が燃えあがる。
この男の覇道をはばむ者がいるなら、敵将の喉笛すら噛みちぎる。
「玄海、様」
黎は暗闇の毛皮の中で、己の血ぬられた運命に、絶対的な主の名を深く刻みこんだ。
*
城の奥深く、皇帝の身辺警護を担う御親兵や高位の侍従のみに与えられる区画。その一角にある、狭すぎず居心地のほどよい小部屋が、今の黎に与えられた棲家だった。
しかし、いまだに窮屈な屋内暮らしにはなじめない。
床から一段高い位置にある木製の寝台は落ち着かず、寝返りを打つたびに朝方床へと転げ落ちることが何度もある。
部屋には小さな露台へと続く縦窓があり、外の空気を胸いっぱいに吸いこむため、黎はいつもそれを開け放っている。
雨が吹きこもうが強風が荒れようが、かたくなに閉めないため、定期的に入室する掃除婦からは「湿気が入って壁がカビます!」と毎度どやされていた。
午前の座学を終え、知恵熱で割れそうな頭を抱えて自室に戻ると、黒ぬりの卓上にはすでに温かい食事が運ばれていた。
日に三度、みずから手を汚して獲物を狩らずとも温かい膳が運ばれる。それだけでも十分な驚きだったが、目の前にならぶ品々は、野山暮らししか知らなかった黎の感覚を根本からゆさぶるものだった。
立ちのぼる湯気とともに、魚と山菜を甘辛く煮込んだ濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。
獣の脂が黄金色の輪を描いて浮く、根菜たっぷりの熱い汁物。丁寧に皮がむかれ、甘い蜜をしたたらせるみずみずしいイチジク。そして、鶏肉の旨味とキノコの香味が一粒一粒にまで染みこんだ、炊き込みの雑穀米。
ふっくらとツヤを放つ米粒に、黎は息をのんだ。
自分が育った村々において、米などというものは雲の上の存在だった。税代わりに絞りあげられ、軍兵や富商の口へ運ばれるための穀物。
自分たちが口にできるのは、やせた根菜か、わずかな小麦粉を水で練って焼いたものばかりだった。
もっとも米に似た食い物ならば、粒が極小の黄色い雑穀に野草を混ぜてかさ増しした薄くドロっとした粥ぐらいだ。
だが、口に運んだ米は噛みしめるたび、穀物の甘みと出汁の旨味が口いっぱいに弾ける。
みずから汗を流して獲物を狩ることもなく、ただ座っているだけでこの『高級品』が腹を満たしていく事実に、冷や汗が出るようなめまいすら感じていた。
初めてこの食膳を突きつけられた際、黎は懐から慣れない巾着を引っぱり出し、数えるほどしかない銅銭を握りしめて顔面を引きつらせた。
「……おい、この飯代、いくら必要なんだ? 俺の給金で払えるのか」
武功の報酬として『給金』をもらうようになって日も浅く、金銭感覚すらまともにつかめていない。
身の丈に合わぬ贅沢のツケを払わされ、追放されるのではないかと本気で狼狽したのだ。
「なにをバカなこと言ってんだい。給金から引かれるわけないだろ。これは城下に暮らす民だって普通に食ってる、ありふれた飯だよ」
恰幅のいい給仕の年配女は、黎の焦りようを見ると腹をゆらして大笑いした。
自分にとって死に物狂いで手に入れるようなご馳走が、ここでは「ありふれた日常」でしかない。
その現実にあっけにとられながらも、滋養強壮を考えぬかれた膳に箸を伸ばし、その滋味に舌鼓をうつ。
一口を口へ運ぶたび、胸の奥から温かくも苦い感情がわきあがり、いつも同じ言葉が脳裏をよぎる。
(出雲と既望にも、食わせてやりたい)
生きるために泥水をすする日々しか知らなかった黎にとって、ここはあきれるほど贅沢で、どこか頭の狂った異世界だった。
咀嚼しながら、その視線は卓上に乱雑に重ねられた教本へと動いた。しおりが挟まったページを開き、食事中でもかまわず流し見る。
文字の基礎について書かれた児童書だ。成人一歩手前の男が読むには滑稽だが、黎は真剣ににらめっこしていた。
数ヶ月前、入隊直後に押しこめられた軍兵の合同宿舎での光景が思い浮かぶ。
*
当時の黎に向けられていたのは、異端の禽獣をねめつける冷ややかな視線ばかりだった。
剣術の型すら知らぬ新参者でありながら、歴戦の指導官の頭上を高く跳躍し、その足裏で顔面を踏みつけて無軌道な暴力でねじ伏せたのだ。
野山育ちゆえに礼儀作法など知る由もなく、言葉遣いの不躾さも相まって、「あいつは天狗の類だ」と気味悪がられ、黎は完全に孤立していた。
だが、半獣の正体を伏せろという玄海の命を守りつつも暴れまわる規格外の噂は、またたく間に皇帝本人の耳へと届く。
己の肉体を意のままに操る武術において、黎の異様な吸収速度は、すでに成人した武人である数十人の皇子たちをあっさりと置き去りにした。
さらに黎の鋭敏な獣の感覚は、皇帝の膳に盛られた微量な毒の臭いをかぎ分け、暗殺者が衣の奥で小さな懐剣の鯉口を切る、かすかな摩擦音すら鼓膜でとらえてみせたのだ。
誰にも媚びず、邪な野心すらもたず、ただ愚直に絶対的な力だけを求める黎を、玄海は「使える影」として城内を警護する御親兵の地位へと引きあげた。
『我が軍の将ともなれば、礼節と最低限の学すらなき者には兵を与えぬ。言葉を知らぬ愚者に、人間はつき従わぬからな』
玄海にそうたしなめられたことで、黎には文字や算術のみならず、立ちふるまいや礼節をたたきこむ専属の指導員がつけられた。
昼夜におよぶ過酷な肉体訓練の合間を縫い、盤面をたたく音で眠気を強引に吹き飛ばされながら、知識と作法をつめこまれる日々。
当初は激しく反発していた黎だったが、玄海のあの一言が、その胸の奥に消えない火を灯していた。
(今更、俺の頭で軍師や文官になんてなれっこない。ならば、力と武功で全軍をねじ伏せる将軍になるしかない。)
灰霄領が戦火に飲まれる前に、みずからが軍の采配を握る。
帝国軍による紫耀領や青淵領への侵攻が難航しているという噂は、この城内にも届いている。
数で物を言う帝国軍。時間はそれほど残されていない。
後がない分、既望に学問を勧められた時には見せなかった執念で、黎は文字に食らいついていた。
空になった汁椀を置き、卓を片づけると、黎は手元の白墨を指先でつまんだ。
黒い石板の上に、覚えたての文字を刻む。
──『いずも』
──『出雲』
音を表す文字と、意味を持つ文字。
白い雲を象った「雲が出づる」という意味。字など読めなかった頃から、その形だけは脳裏に焼きついていた。
開け放たれた縦窓の向こう、四角く切りとられた曇天には、重苦しい灰色の雲が垂れこめていた。吹きこむ冷風が頬をなでる。
(……あいつの髪は、もっとツヤがあって、明るい灰色だった。)
文字を覚えるにつれ、ふと雲を眺めてしまう時間が増えた。
決して届かない空へ、無意識に右腕を伸ばす。
だが、視界に入った己の手を見て、黎の呼吸が止まった。
昨夜の玄海との死闘で爪は無惨に割れ、皮膚の隙間には己の黒い血がこびりついている。
あの森で過ごした温かい心地。それに浸りかけた心を、冷酷な黒色が容赦なく現実へと引きずり戻す。
自分はもう光の当たる場所へは行けない。人の血を喰らう影なのだ。
我に返った黎は、石板の文字を掌で乱暴にこすり消した。粉々になった白墨の粉が指先を汚す。
「なにやってんだ俺は。稽古に遅れちまう」
低い声で自嘲し、立ちあがる。寝台でまどろめる時間まで、思い出をふり返る余裕はない。なすべきことは山のようにある。
黎は急いで真新しい訓練着に袖を通し、硬い鎧当を身に縛りつけると、午後の修練場へと走り出した。
<タイトル/慣用句>
月日変われば気も変わる:
人の心は同じままではない、時間がたつにつれて、気持ちや状況が変わると言う意味。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n623e461c619b




