第九章 新しい始まり
葵は封筒を握りしめたまま、佐伯の顔を見つめていた。
「私……まだ、決められない」
悠人が驚いた顔で振り返った。
「葵?」
「全部捨てて新しい人生を始めるのも、怖い。でも、このまま佐伯さんの掌の上で生きるのも、嫌なの」
佐伯は静かに微笑んだ。怒りも苛立ちも見せず、ただ穏やかに言った。
「それも一つの選択です。では、提案があります」
彼はカウンターの奥から、一枚の古い鍵を出した。
「この店の地下に、もう一つのフロアがあります。表の店とは別の、本当の『婚外カフェ』。そこは、選ばれた者だけが入れる場所です。あなたがた二人が望むなら……新しい名前と新しい人生を与えましょう。ただし、代償はあります」
美咲が低く笑った。
「代償ね……面白くなってきた」
葵と悠人は顔を見合わせた。
その夜、二人は佐伯に導かれ、店の奥深くにある隠し階段を降りた。
地下フロアは、地上よりもさらに静かで、濃密な空気に満ちていた。そこにはすでに、何人かの「選ばれた客」がいた。彼らは皆、地上の生活を捨て、新しいアイデンティティで生きることを選んだ者たちだった。
佐伯が静かに言った。
「ここは、結婚という契約から完全に逃れた者たちのための、最後の聖域です。
ただし、一度ここに入ったら、二度と地上の『元の自分』には戻れません」
葵は悠人の手を強く握った。
心臓が激しく鳴っていた。恐怖と、未知への興奮が同時に襲ってくる。
「私は……」
彼女は深く息を吸い、ゆっくりと言った。




