第八章 崩壊の序曲
葵は三日間、ほとんど眠れなかった。
会社を早退し、マンションに戻ると、拓也がリビングのテーブルに離婚届を置いていた。すでに彼の署名と捺印が済んでいる。
「サインしてくれ。慰謝料は請求しない。財産分与も半分でいい。ただ……出て行ってくれ」
夫の声は乾いていた。怒りすら枯れ果てたような、虚ろな響きだった。
葵はペンを持ったまま、手が震えてサインできなかった。三年間の結婚生活が、たった数週間の情事で崩れていく。罪悪感が胸を抉るが、それ以上に悠人への想いが強かった。
「ごめん……本当に、ごめんなさい」
その夜、葵はスーツケースに最低限の荷物を詰め、マンションを出た。拓也は最後まで顔を見せなかった。
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『Café Liminal』に着くと、悠人が待っていた。
彼もまた、妻にすべてを告白したと言った。妻は取り乱し、暴れた末に実家へ帰ったという。悠人の目には疲労と興奮が混じっていた。
「これで自由だ。俺たち、始められる」
二人は三号室に入り、激しく抱き合った。解放感と罪の意識が混じり合い、普段より荒々しい交わりになった。葵は悠人の背中に爪を立て、声を限界まで上げた。まるでこの快楽で全てを正当化しようとするかのように。
しかし、絶頂の後に訪れたのは、予想外の虚しさだった。
ベッドで横になりながら、葵はぽつりと呟いた。
「……本当に、これでよかったのかな」
悠人は答えない。ただ天井を見つめていた。
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店内に下りると、佐伯と美咲が待っていた。
佐伯はいつもの穏やかな笑顔で、二人の前に封筒を二つ置いた。
「これはお二人の新しい人生のための……ささやかなサポートです。中には新しい身分と、半年間暮らせる資金のカードが入っています」
葵は驚いて封筒を開けた。中身は本物だった。
「なぜ……こんなことを?」
佐伯は静かに答えた。
「私はこの店を十年前に開きました。妻に浮気され、すべてを奪われた夜に。最初はただの復讐の場だった。でも今は……同じ痛みを持つ人たちが、本当に自由を選べる場所にしたいと思っています」
美咲が笑った。狂気じみた、しかしどこか晴れやかな笑顔だった。
「私は明日、夫の愛人を潰しに行くわ。あなたたちはどうするの?」
部屋に重い沈黙が落ちた。
悠人が葵の手を握り、言った。
「俺たちは……新しい街で、静かに生きていくよ」
その瞬間、葵は違和感を覚えた。
本当にこれが「自由」なのだろうか。夫を傷つけ、家庭を壊し、佐伯の掌の上で転がされているだけではないのか。
葵は封筒を握りしめたまま、初めて自分の選択に強い疑念を抱いた。
外では激しい雨が降り続いていた。まるで、この物語の終わりを予感させるように。




