第七章 決定的瞬間
火曜日深夜、葵がリビングのソファで待っていると、午前零時を回って拓也が帰ってきた。
夫の表情は疲れていたが、目は鋭く光っていた。鞄から一枚の紙を取り出し、テーブルの上に静かに置いた。
それは、渋谷のホテル近くのカフェのレシートと、葵のコートに残っていた悠人の髪の毛を分析した簡易DNA検査の結果用紙だった。拓也は探偵を雇っていた。
「誰だ?」
声は低く、抑揚がなかった。
葵の指先が震えた。言い訳が頭をよぎったが、すべて無意味だと悟った。長い沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい」
拓也の目が一瞬、激しく歪んだ。怒り、悲しみ、屈辱が渦巻いているのがはっきりとわかった。
「三年間、俺は君に何も強要しなかった。子供のことも急がなかった。仕事も好きにやらせてきた。それなのに……なんでだ?」
葵は唇を噛んだ。涙が溢れて止まらなかった。
「あなたは優しすぎたの。優しいだけで、女として見てもらえなかった。触れても、欲情してくれなかった……私はただ、誰かに『女』として欲しがられたかった」
拓也は拳を強く握りしめた。
「それで不倫か。最低だな」
その夜、二人は一睡もせずに朝を迎えた。離婚の話は出なかったが、拓也は「考える時間が必要だ」と言って客間に移った。
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翌日の夜、葵は震える足で『Café Liminal』へ向かった。
店内はいつもより静かだった。佐伯がカウンターでグラスを磨いている。悠人はすでに来ていて、葵を見るなり駆け寄った。
「どうした? 顔色が悪い」
葵はすべてを話した。夫にバレたこと、レシートのこと、昨夜の会話。
悠人は青ざめながらも、葵を抱きしめた。
「離婚しよう。俺も妻に話す。全部終わらせて、一緒に新しい人生を始めよう」
その言葉は甘く、救いのように聞こえた。
しかし、カウンターから佐伯の声が静かに割り込んだ。
「本当に、それでいいんですか?」
二人が振り返ると、佐伯は穏やかな笑みを浮かべていた。
「外の世界は残酷ですよ。離婚すれば財産分与、慰謝料、社会的な目……すべて失う可能性があります。それでも『愛』だけで生きていけますか?」
悠人が苛立った声で言った。
「佐伯さん、あなたは何が言いたいんです?」
佐伯はゆっくりとカウンターから出てきた。
「私はただ、皆さんに『本当の自由』を選んでほしいだけです。妻や夫を壊すことも、すべてを捨てることも、どちらも選択肢です。でも……中途半端は一番危険ですよ」
そのとき、美咲が店の奥から現れた。彼女は不気味な笑みを浮かべ、葵に近づいた。
「私みたいになりたくなかったら、早く決めなさい。夫を壊すか、自分が壊れるか……」
葵は初めて、この店がただの逃げ場ではなく、甘い毒であることを痛感した。
悠人が葵の手を強く握った。
「葵、俺と逃げよう。今夜、ここを出て」
葵は答えられなかった。心の中が激しく揺れ動いていた。
愛か、安定か。
欲望か、罪悪感か。
雨が、再び激しく窓を叩き始めた。




