第六章 見えない網
その週末、葵の家では静かな緊張が続いていた。
拓也は表面上はいつも通りだったが、些細な行動が変わっていた。葵の帰宅時間が遅い日は必ず「今日はどこにいたの?」と聞き、スマホをチラチラ見るようになった。夜の営みも久しぶりに求められたが、葵は身体が拒否反応を示した。拓也の優しい手が、悠人の荒々しい抱擁と重なって気持ち悪く感じられた。
「どうした? 最近冷たいよ」
「……疲れてるだけ」
葵はそう言って夫の胸に背を向けた。後ろで拓也がため息をつくのが聞こえた。
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月曜日、葵は仕事の昼休みに悠人からメッセージを受け取った。
《今夜、店で。どうしても会いたい》
その一文だけで、葵の下腹部が熱くなった。罪悪感など、もう薄れかけていた。午後になって、夫に「今日は残業が遅くなりそう」と嘘の連絡を入れた。
『Café Liminal』に着くと、悠人はすでに三号室で待っていた。葵が入るなり、ドアを閉めるや否や激しくキスを浴びせ、壁に押し付けた。
「我慢できなかった……」
服を剥ぎ取るのももどかしく、二人はそのまま立ったまま繋がった。悠人が葵を抱え上げ、深く突き上げる。葵は声を抑えるのを諦め、甘い喘ぎを漏らした。何度も達し、崩れ落ちるようにベッドへ倒れ込んだ後も、悠人は離れようとしなかった。
汗まみれの身体を重ねながら、悠人が真剣な目で言った。
「離婚……考えたことある?」
葵は一瞬、息を止めた。
「……考えない日はない。でも、怖い。全部失うのが怖い」
「俺もだ。でも、このままじゃ壊れる。君がいないと、もう生きていけない気がする」
二人は抱き合いながら、未来の幻想を語り合った。現実から遠く離れた、甘くて脆い夢を。
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部屋を出て一階に戻ると、店内の空気がいつもと違った。
美咲がカウンターに座り、佐伯と何かを熱心に話している。美咲の目が異様に輝いていた。
葵と悠人が近づくと、美咲が振り返って微笑んだ。
「あなたたちも、そろそろ本気で動く時期じゃない? 私はもう決めたの。夫の浮気相手の女子大生に、ちょっとした『贈り物』を準備中よ。佐伯さんが協力してくれるって」
佐伯は静かに紅茶を淹れながら言った。
「私はただ、皆さんが本当の意味で自由になるお手伝いをしているだけです。壊したいものがあるなら、壊せばいい。守りたいものがあるなら……それも、選べばいい」
その言葉には、どこか冷たい響きがあった。
悠人が佐伯をまっすぐ見つめた。
「佐伯さん、あなたはこの店で何をしようとしているんですか?」
佐伯は微笑んだまま、静かに答えた。
「私はかつて、妻に全てを奪われた男です。愛も、誇りも、未来も。……だからこうして、同じ痛みを持つ人たちに、選択肢を提供しているのですよ。本当の意味での『外』へ出る選択肢を」
葵は背筋が凍った。
この店は、単なる不倫の場ではなく、傷ついた者たちを「復讐」や「破壊」へと導く装置なのかもしれない——。
その夜、葵が家に帰ると、玄関に夫の靴がなかった。珍しく遅い帰宅だ。
テーブルの上に、一枚のメモが置かれていた。
《最近の君が心配だ。少し話そう。
遅くなるけど待ってるよ 拓也》
葵はメモを握りしめ、初めて本物の恐怖を感じた。




