第五章 外の世界
約束した水曜日、葵は午後半休を取って渋谷のホテル街に向かった。
悠人とは駅近くの喫茶店で落ち合い、手を繋いで人気のない路地を歩いた。店の中では許されていた触れ合いが、外の世界ではひどく危うく感じられた。誰かに見られるかもしれないという緊張が、逆に二人の興奮を煽っていた。
「本当に大丈夫かな……」
葵が不安げに言うと、悠人は彼女の手を強く握り返した。
「一回だけ。どうしても、普通の恋人みたいに過ごしたかった」
予約したのは、シンプルで清潔なビジネスホテルだった。派手なラブホテルを選ばなかったのは、互いに罪悪感を少しでも薄めたかったからかもしれない。
部屋に入るや否や、二人は貪るようにキスをした。店でのように時間を気にすることなく、悠人は葵のコートを乱暴に脱がせ、ブラウスをはだけさせた。葵も負けじと悠人のシャツのボタンを外し、ベルトに手をかける。
ベッドに倒れ込むと、悠人が葵の脚を大きく広げ、熱い舌で秘部を丁寧に愛撫した。葵は枕を噛んで声を殺した。全身が震え、腰が勝手に浮く。
「悠人……もう、入れて……」
悠人が身体を重ねた瞬間、葵は深い満足感と共に涙を零した。激しく、深く、店では味わえなかった自由な動きで二人は何度も達した。汗と吐息と体液が混じり合い、部屋中に甘い匂いが充満した。
午後三時を過ぎ、二人はベッドの中で絡まり合ったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
「幸せだな、今」
悠人がぽつりと言った。
葵は頷きながらも、胸に重いものがのしかかっていた。
「でも、これが続けば……必ず壊れるよね」
「壊れるなら、壊れた後で考えよう。今はただ、君が欲しい」
二人はもう一度、ゆっくりと身体を重ねた。今度は荒々しさではなく、慈しむような静かな交わりだった。葵は悠人の背中に爪を立てながら、夫の顔を完全に頭から追い出そうとした。
---
ホテルを出た後、二人は軽く食事を済ませ、別々の電車で帰ることにした。
葵が自宅の最寄り駅に着いたのは夜の八時過ぎだった。マンションのエントランスに入ると、拓也が珍しく早く帰ってきていて、リビングのソファに座っていた。
「おかえり。今日は遅かったね」
夫の声はいつもより低く、視線が鋭い。
「友達とカフェ巡りしてたの。ごめん、連絡しなくて」
葵は笑顔を作りながら、コートを脱いだ。その瞬間、首筋に残っていた薄いキスマークに気づき、慌てて髪で隠した。
拓也は立ち上がり、葵に近づいてきた。鼻を近づけ、匂いを嗅ぐような仕草をする。
「……新しい香水?」
「うん、試供品をもらったの」
葵の声が少し上ずった。拓也はそれ以上追及せず、ただ「そうか」とだけ言ってキッチンへ向かった。
しかし、その夜、葵がシャワーを浴びている間、拓也は葵のカバンを開け、中を漁っていた。財布から出てきたレシート——渋谷のホテルの近くのカフェのもの——を、拓也は無言でスマホのカメラで撮影した。
---
一方、『Café Liminal』では、佐伯が一人でカウンターに座っていた。
彼の前には、葵と悠人の行動履歴が書かれたノートが開かれている。ページの端には、小さく赤い文字でこう書かれていた。
『第7段階 外接触確認』
佐伯は静かにグラスを傾け、独り言のように呟いた。
「もう少し……もう少し深く、落ちてくれないと」
窓の外では、再び雨が降り始めていた。




