第四章 日常の亀裂
翌朝、葵は自分のマンションのベッドで目覚めた。
隣にいる夫・拓也は、まだ眠っている。穏やかな寝顔を見ていると、胸が締めつけられた。昨夜、悠人に抱かれていた身体の感触が、まだ鮮明に残っている。太ももの内側や胸の先、首筋に残る淡い痕。すべてを隠すように、葵は長袖のパジャマを着て台所に立った。
「葵、おはよう」
拓也が起きてきて、後ろから軽く抱きついた。葵の身体が一瞬強張る。
「……おはよう。コーヒー淹れるね」
「ありがとう。君は本当にいい妻だよ」
その言葉が、今の葵には棘のように刺さった。いい妻。優しい妻。けれど、女としてはもう必要とされていない。そんな現実を、夫は無自覚に突きつけてくる。
朝食を一緒に食べながら、拓也が言った。
「今週末、久しぶりに実家に帰ろうか。母さんが葵に会いたがってるよ」
葵はフォークを持つ手を止めた。姑の顔を思い浮かべると、胃が重くなる。
「ごめん、今週末は友達と約束が……」
「また? 最近、友達との時間が多いね」
夫の声に、かすかな疑念が混じった気がした。葵は微笑みを貼りつけて誤魔化した。
「仕事も忙しいし、息抜きが必要なんだよ」
その日、会社では集中できなかった。会議中も、資料を見ながら悠人の指の感触を思い出してしまう。腿の間に残る微かな疼き。罪悪感と、抑えきれない興奮が交互に襲ってくる。
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夕方、葵は再び『Café Liminal』に向かっていた。三日連続だった。
店に入ると、佐伯が静かに言った。
「悠人さんはまだですが、少々お待ちください。……今日は美咲さんもいらっしゃっていますよ」
葵は奥の席に座り、コーヒーを待った。すると、カウンター近くに座っていた美咲が、こちらに近づいてきた。
「あなた、最近よく来てるわね。悠人さんと?」
美咲の目は腫れていなかったが、代わりに底冷えするような光を帯びていた。
「……はい」
「気をつけた方がいいわよ。この店は、毒みたいなもの。最初はただの逃げ場。でも、知らないうちに嵌まっていく」
美咲は自分の左腕の袖を少しめくった。薄いリストカットの痕が、うっすらと残っていた。
「私は夫の浮気を苦に自殺未遂までした。でも今は……復讐の方法を探しているの。佐伯さんが手伝ってくれるって」
葵の背中に冷たい汗が流れた。
そのとき、悠人が店に入ってきた。美咲はすぐに自分の席に戻り、何事もなかったように紅茶を飲む。
悠人は葵の隣に座ると、すぐに手を握った。
「三日ぶり。会いたかった」
「私も……」
二人はすぐに二階の別室へ上がった。今夜は前回より激しく、貪るように身体を重ねた。葵は自ら上になり、悠人を貪った。声を抑えるのがやっとだった。快楽の波が何度も押し寄せ、夫の顔など完全に頭から消えていた。
絶頂の後、汗だくで抱き合いながら悠人が囁いた。
「来週、半日だけ時間作れないか? 店以外で会いたい」
葵は迷った。店外は危険だ。ルール違反に近い。
でも、頷いてしまった。
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店を出るとき、佐伯が二人を呼び止めた。
「葵さん、悠人さん。少しだけお話があります」
佐伯はカウンターの奥から、一枚の封筒を出した。中には二人の写真が入っていた。店内で抱き合う姿、キスをする瞬間——すべて鮮明に写されていた。
「安心してください。これは私が管理しています。ただ……外で会う場合は、くれぐれも慎重に。もしバレて、この店に迷惑がかかると困りますので」
佐伯の笑みは優しかったが、目は笑っていなかった。
「この店は皆さんの秘密を守ります。代わりに、皆さんも私のルールを守ってください」
葵は初めて、この店がただの逃げ場ではないことを、はっきりと理解した。




