第三章 境界線
雨は一向に弱まる気配がなかった。
悠人の指が、葵の太ももを優しく撫で続ける。ストッキング越しに伝わる体温が、葵の理性をゆっくり溶かしていく。息が重なり、互いの吐息が混じり合う距離になっていた。
「……別室、行こうか」
悠人が掠れた声で言った。今度は問いではなく、確認だった。
葵は数秒沈黙した後、小さく頷いた。言葉が出せなかった。頷いた瞬間に、胸の奥で何かが音を立てて崩れたような気がした。
佐伯は表情を変えず、二人の前に小さな黒いカードキーを置いた。
「三号室をご利用ください。時間は無制限です。ただし、店外への連絡は固く禁じています」
その言葉が、妙に現実味を帯びて聞こえた。
三号室は店の奥、階段を上がった二階にあった。重厚な木の扉を開けると、柔らかな間接照明と、大きなベッド、シャワールーム、小さなソファが置かれた空間が広がっていた。普通のラブホテルとは違う、どこか落ち着いた「隠れ家」のような空気だった。
扉が閉まった瞬間、悠人が葵を抱き寄せた。
唇が重なった。最初は優しく、探るように。すぐに熱を帯び、貪るようなキスに変わる。葵は両手を悠人の背中に回し、シャツを握りしめた。舌が絡み合い、甘い吐息が漏れる。
「ん……っ」
悠人の手がワンピースの背中のファスナーを下ろす。布が滑り落ち、葵の肩と胸の膨らみが露わになった。ブラジャーのレースに指をかけながら、悠人が耳元で囁いた。
「綺麗だ……ずっと、こうなりたかった」
葵は恥ずかしさで目を伏せたが、身体は正直だった。悠人の手に導かれるままベッドに横たわる。悠人は上着を脱ぎ捨て、葵の上に覆い被さった。首筋に唇を這わせ、鎖骨を丁寧に舐め、胸の谷間へゆっくりと降りていく。
葵の背中が弓なりに反った。久しぶりに感じる、熱い刺激。夫に与えられなかった「女」としての感覚が、一気に蘇ってくる。
「悠人……」
名前を呼ぶ声が、甘く震えていた。
悠人の指がストッキングをゆっくり下ろし、素肌に直接触れる。太ももを割り、秘められた部分に近づいていく。葵は思わず脚を閉じようとしたが、悠人が優しく膝を開かせた。
「怖いなら、いつでも止めていい」
その言葉が、葵の最後の抵抗を溶かした。
彼女は自ら悠人の首に腕を回し、深くキスをした。指が、悠人のベルトに伸びる。硬くなった熱を掌で感じた瞬間、葵の頭の中は真っ白になった。
二人はそのまま、雨音に包まれながら、互いの身体を貪るように求め合った。言葉は少なく、ただ肌がぶつかり合う音と、抑えきれない吐息だけが部屋に満ちた。
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クライマックスを過ぎ、ベッドの中で悠人が葵を抱きしめていた。
汗ばんだ肌が心地よく冷えていく。悠人の指が、葵の背中を優しく撫で続けている。
「後悔してる?」
「……してない。でも、すごく怖い」
葵は正直に答えた。夫の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。罪悪感と、満たされた充足感が同時に胸を締めつける。
悠人が葵の髪に唇を寄せた。
「俺もだ。でも、ここにいるときだけは、自分でいられる気がする」
そのとき、部屋の隅にある小さなスピーカーから、佐伯の静かな声が流れた。
「閉店まであと一時間です。お気をつけてお戻りください」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。現実が、ゆっくりと戻ってくる。
服を整えながら、葵はふと呟いた。
「この店……ただの場所じゃないよね。佐伯さん、何を考えてるんだろう」
悠人は少し表情を曇らせた。
「さっき、美咲さんが帰るときに聞いたんだ。『佐伯さんは、昔同じ痛みを味わったことがある』って。詳しくは教えてくれなかったけど……この店は、ただの逃げ場じゃなくて、何か目的があるみたいだ」
葵は背筋に冷たいものを感じた。
出口で佐伯と目が合った。彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべていたが、その奥に、底の見えない闇が潜んでいるように思えた。




