第三話 残る熱
翌朝、美咲は自分の家のベッドで目を覚ました。
隣には夫の聡が寝息を立てている。規則正しい、薄い呼吸。昨夜まではそれが「日常」だったのに、今はただの雑音にしか聞こえなかった。
身体の奥に、まだ熱が残っている。桐生の指が触れた跡が、肌の下でうっすらと疼く。脚を閉じると、昨夜の密着の感触が蘇った。絡みついて、離れなかったあの重み。
美咲は天井を見つめたまま、小さく息を吐いた。
復讐のはずだった。均衡を取るはずだった。なのに、帰りのタクシーの中でも、シャワーを浴びている間も、彼の体温が体から抜けきらなかった。
二日後。
また雨が降っていた。
美咲は今度は迷わずに、Café Liminalのガラス扉を押した。佐伯はカウンター越しに彼女を見て、いつもの穏やかな笑みを浮かべただけだった。
「お待ちしていました。今夜も『桐生』さんでよろしいですか」
美咲は頷いた。言葉にするのが、少し怖かった。
桐生はすでに奥の席にいた。黒のシャツ。袖を畳んだ手首。薬指の指輪の跡。前回と同じなのに、なぜか近づくだけで胸の奥がざわつく。
「来たか」
彼は短く言った。笑みは薄い。でも目は、最初の夜より少し深く沈んでいた。
「……来てしまった」
美咲がそう答えると、桐生は小さく鼻で笑った。
「俺もだ。壊したいものが、まだ壊しきれていない」
二人はまた三号室に入った。
扉が閉まる音がした瞬間、美咲は自分から彼に近づいていた。コートのまま、彼の胸に額を押しつける。桐生は何も言わず、その頭に掌を置いた。指がゆっくりと髪を梳く。優しくて、逃がさない力加減。
「昨日から、ずっと熱かった」
美咲は低く呟いた。自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
「どこが」
「全部」
桐生は彼女の顎を持ち上げ、唇を重ねた。今度は最初から深く、舌が絡みつく。息が混じり、甘い唾液が溶け合う。美咲の手が彼のシャツを掴み、背中に回る。指が肩甲骨のラインをなぞり、離れない。
服が床に落ちるのも早かった。
ベッドに沈むと、桐生は彼女の全身に覆いかぶさった。肌と肌が、隙間なく張り付く。胸の谷間に彼の熱が沈み、腹と腹が密着する。脚が自然と彼の腰に絡みついた。前回より強く、踵が背中に食い込む。
「こんなに欲しがってるのに、まだ復讐だと思ってるのか」
耳元で低く問われる。美咲は答えず、彼の首筋に唇を押しつけた。吸い、歯を立て、甘く疼かせる。桐生の息が少し乱れた。その反応が、美咲の奥を熱くする。
彼が入ってきたとき、美咲は声を殺せずに咽んだ。
深い。昨夜より確実に、身体が彼を受け入れている。引き抜かれるたびに熱が引き、沈むたびにまた満たされる。腰が自然に動き、彼を奥へ誘う。桐生は彼女の両手を頭上で握り、指を絡ませた。骨が当たるくらい強く。逃げられない。
動きはゆっくりだった。
でも、密着は極端だった。胸を押しつけ、腹を擦り合わせ、脚を絡めたまま、少しずつ角度を変えて突き上げる。美咲の内側が、彼の形を覚え始めているように締めつける。汗が混じり、肌が滑り、それでも離れない。
「ん……っ、はぁ……」
甘い声が漏れる。桐生はそれを聞きながら、さらに深く沈めた。美咲の脚が痙攣するように絡みつき、彼の腰を逃がさない。
「見てろ」
彼が囁く。
「俺がお前を、どこまで沈めるか」
頂点は、絡み合ったまま同時に訪れた。
美咲は背を反らし、彼の中で強く締めた。桐生は低く呻いて、熱を奥に放つ。しばらくの間、二人は汗だくのまま重なり合っていた。心臓の音が、互いの胸に直接伝わってくる。
雨音が、また遠くで鳴っていた。
桐生が顔を上げ、美咲の唇を軽く啄んだ。優しいようで、離さないキス。
「次も来るな」
命令ではなく、静かな確認だった。
美咲は彼の背中に残った爪の跡を、指でゆっくりと撫でた。熱い。まだ熱い。
「……来る」
その一言が、自分の口から出たとき、美咲ははっきりと自覚した。
これはもう、単なる復讐では終わらない。
甘い泥は、すでに足首まで沈んでいた。




