第四話 沈む速度
それから一週間で、美咲は三度Café Liminalを訪れた。
毎回、雨が降っていたわけではない。晴れた夜もあった。それでも店の前に立つと、空気がどこか湿って感じられた。佐伯はもう何も聞かなかった。ただ静かに鍵を渡し、目だけで「ごゆっくり」と告げるだけだった。
桐生はいつも先に来ていた。
黒のシャツ。畳んだ袖。薬指の白い跡。その姿を見るたび、美咲の足首に絡みついた泥が、少しずつ膝へ上がってくる気がした。
四度目の夜。
三号室の照明はいつもより少し暗く調整されていた。桐生はベッドの端に腰を下ろし、美咲を見上げた。笑みはない。細い目の奥に、自己嫌悪に近い影が沈んでいる。
「今日は、壊したくて来た」
彼が低く言った。
「自分を、だ」
美咲はコートを脱ぎながら、彼の前に立った。
「私は……均衡を取りたくて来たはずなのに」
言葉の途中で、桐生が彼女の手首を掴んだ。引かれるようにして膝をつく。顔が近づき、息が混じる。
「もう嘘はやめろ。お前も、俺と同じだ」
唇が重なった。乱暴ではなく、食い込むように深い。舌が絡み、歯が軽く当たる。美咲は彼のシャツの襟を掴み、自分から体重を預けた。倒れるようにベッドに沈む。
服を剥ぐ手つきが、以前より急いていた。
それでも密着は丁寧だった。肌と肌が触れた瞬間、桐生は彼女の全身を抱きすくめるように覆った。胸を押しつけ、腹を密着させ、脚を彼女の脚の間に割り込ませる。隙間を許さない。美咲の手が彼の背中を這い、肩甲骨の窪みに指を沈める。離れない。離れたくない。
「ん……っ」
彼が入ってきたとき、美咲は短く呻いた。もう身体が、彼の形を覚えている。滑らかに受け入れ、奥で締めつける。桐生は動かずに、ただ深く沈めたまま彼女の耳元で息を吐いた。
「感じてろ。俺がお前の中にいることを」
腰が動き始める。
ゆっくりと、しかし確実に。引き抜くたびに熱が引き、沈めるたびにまた満ちる。美咲の脚が自然と彼の腰に絡みついた。踵が背中を蹴り、もっと深くと無言で求める。桐生は彼女の両手を頭上で交差させ、指を一本ずつ絡ませた。骨が軋むくらいの力。逃げ道を完全に塞ぐ。
汗が混じる。
肌が張り付き、滑り、また張り付く。胸の谷間に彼の熱が落ち、腹と腹が擦れ合うたびに甘い摩擦音が立つ。美咲の声が、抑えきれずに漏れ始めた。低く、湿った吐息。桐生はそれを聞きながら、角度をわずかに変え、彼女の一番奥をゆっくりと擦った。
「はっ……あ……」
美咲の内側が痙攣するように収縮する。桐生の息が乱れた。彼は一瞬動きを止め、額を彼女の額に押しつけた。
「お前のそこが、俺を離さない」
「……離したくない」
自分の口から出た言葉に、美咲は目を見開いた。桐生は薄く笑った。優しくて、残酷な笑み。
「いい子だ」
動きが再開する。今度は少し速く、深く。美咲の脚がさらに強く絡み、爪が彼の背中に弧を描く。痛みを与えるように。でも桐生はそれを喜び、さらに沈めた。完全に埋め尽くされる感覚。逃げられない。抜けられない。
頂点は、絡み合ったままやってきた。
美咲は背を大きく反らし、彼の中で強く締めた。声が喉の奥で潰れる。桐生は低く呻き、熱を奥深くに放った。しばらくの間、二人は汗だくで重なり合ったまま動かなかった。心臓の鼓動が、互いの胸に直接打ち付ける。
雨は降っていなかった。
なのに、部屋の空気はひどく湿っていた。
桐生がゆっくりと顔を上げ、美咲の唇を軽く啄む。離さないキス。美咲は彼の背中に残った赤い跡を、指の腹でゆっくりと撫でた。
「次は、もっと沈めてやる」
彼が低く囁く。
美咲は目を閉じたまま、小さく頷いた。
足首から始まった甘い泥は、もう太ももまで達していた。そして彼女は、それを振り払おうとはしなかった。




