第十六話 契約の残り香
黒木の妻からの手紙を読んだ夜、由依は長い間、部屋の明かりをつけたまま座っていた。
『彼はいつか、あなたにも同じことをします。』
その一文が、頭から離れなかった。黒木が帰宅すると、由依は何も言わずに彼に抱きついた。黒木はいつものように彼女を受け止め、ベッドへ導いた。服を脱ぐ手つきは優しく、しかしどこか急いていた。由依も自ら身体を開き、男を受け入れた。深く繋がり、何度も達した。快楽は確かにあった。声も上がった。なのに、絶頂の後に残る熱は、以前より早く冷めていく気がした。
黒木が由依の髪を撫でながら言った。
「もう、正式に離婚が成立する。来月には、もう少し広い部屋に移ろう。お前と、普通の生活をする」
由依は黒木の胸に顔を埋め、小さく応じた。
「……ええ」
「ええ」と答えながら、彼女の心は完全にはそこにいなかった。
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それから二週間が過ぎた。
二人の生活は、表面上は穏やかに進んでいた。朝は一緒にコーヒーを飲み、夜は身体を重ねる。黒木は由依に優しかった。由依もまた、彼を拒まなかった。セックスは相変わらず熱を帯び、由依はイキ、黒木も満たされた顔をした。けれど、行為が終わるたびに、由依は天井を見つめながら思った。
『これが、私が選んだ自由なのか』
剛との連絡は、完全に途絶えた。黒木の妻からも、もう何も届かなかった。世間的には、二人は「新しい関係」を始めた男女だった。なのに、由依の胸の奥には、ずっと小さな空洞が残っていた。
ある雨の夜、由依は黒木が眠った後、一人で窓の外を見た。
濡れた街灯の光が、路面に細く伸びている。ふと、『Café Liminal』のことが頭をよぎった。あの店の薄暗い照明、佐伯の穏やかな声、三号室の鍵の感触。あの場所で始まったものは、確かに自分を変えた。満たされない夜を、一時的に埋めてくれた。けれど、埋められた穴の周りに、新しいひびが入っていることにも、由依は気づいていた。
黒木が後ろから近づき、由依の肩に手を置いた。
「眠れないのか?」
「……少し」
黒木は由依を抱き、静かに唇を寄せた。由依はそれに応えた。熱はあった。求める気持ちも、まだ残っていた。それでも、由依は黒木の胸に額をつけたまま、心の中で小さく呟いた。
『この契約は、まだ終わっていないのかもしれない』
雨は、止む気配がなかった。
二人はこれから、一緒に生きていくのだろう。
愛情もある。依存もある。快楽もある。
しかし、それが「幸せ」と呼べるものなのかどうかは、まだ誰にもわからなかった。
ただ、夜の契約は、確かに続いている。
影の匂いを残したまま。




