第十五話 ひび割れ
黒木の仮住まいで暮らし始めてから、二週間が過ぎた。
形式的には、二人は「一緒にいる」状態だった。朝は同じベッドで目覚め、夜は互いに身体を求め合った。黒木は仕事を早めに切り上げて帰宅するようになり、由依も可能な限りその部屋で過ごした。セックスは以前より頻度が増え、激しく、時に乱暴なほどだった。由依は黒木に抱かれるたびに何度もイキ、声を上げた。なのに、絶頂の後に残るのは、熱より先に来る静かな空洞だった。
ある夜、行為の後に由依が天井を見つめながら言った。
「……剛から、また連絡が来た。荷物の残りの整理をしたいって」
黒木は由依の肩を抱き寄せ、低く応じた。
「会うのか?」
「会わないと、終わらない気がする」
黒木の腕に、わずかな力が入った。
「俺は反対しない。ただ、戻る気はないよな?」
「ない。でも……」
由依は続きを飲み込んだ。
『でも、何もかもが綺麗に進むとは思えない』という言葉が、喉まで出かかっていた。
---
剛との再会は、以前と同じ喫茶店だった。
剛は離婚届の書類を静かにテーブルに置いた。すでに彼の署名と捺印が済んでいる。
「サインしてくれ。慰謝料の件も、俺から請求はしない。ただ、早く区切りをつけたい」
由依はペンを握ったまま、手が止まった。五年間の結婚が、薄い紙一枚で終わろうとしている。剛の目にはもう、愛情も怒りもほとんど残っていなかった。ただの疲労だけがあった。
「……ごめん」
「謝らなくていい。俺も、君を十分に満たせなかった」
由依は震える手でサインをした。剛はそれを受け取ると、短く頭を下げて席を立った。背中が完全に遠ざかっていくのを、由依はただ見送った。
---
その夜、由依は黒木にすべてを話した。
黒木は由依を強く抱きしめた。喜ぶべき場面なのに、二人の間の空気はどこか重かった。黒木は由依をベッドに押し倒し、激しく求めた。由依も応えた。深く繋がり、何度も達した。快楽の波が引いた後、黒木が由依の耳元で囁いた。
「これで、正式に俺たちだけだ。もう、誰にも邪魔されない」
由依は黒木の胸に顔を埋め、小さく頷いた。
頷いたのに、心の奥で何かが静かにひび割れていく音が聞こえた気がした。
翌朝、黒木が仕事に出かけた後、由依は一人で部屋に残った。
テーブルの上に、黒木の妻から届いたという封筒が置いてあった。中を覗くと、短い手紙だった。
『あなたが選んだ女へ。
彼はいつか、あなたにも同じことをします。
私のようにならないで』
由依は手紙を握りしめ、長い時間動けなかった。
新しい生活は、すでに始まっていた。
しかしその土台に、小さな、しかし深いひびが入り始めていた。




