↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚外カフェ  作者: 蒼狐
第4部 甘い泥

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/38

第一話 均衡を求めて

東京の雑居ビルが密集する神田の裏通りに、看板のない小さな店がある。


『Café Liminal』。

表向きは静かな会員制のカフェだが、実際に足を運ぶ客のほとんどは、結婚という枠の外に一時的な逃避を求める人たちだった。本名も職業も明かさず、ただ「欲求」だけを預けて身体を重ねる。店主の佐伯はすべてを知りながら、何も語らない。ここは救済の場所でも、地獄の場所でもなく、ただ欲望が静かに沈殿する、甘い泥のような空間だった。


---


雨は、美咲の心の温度とよく似ていた。


冷たくて、止まなくて、どこか粘り気がある。

白石美咲(36)は、黒のコートの襟を立てたまま、その店の前に立っていた。ヒールの音が濡れた路面に沈む。今夜で三度目の迷いだった。一度目は店の前を通り過ぎただけ。二度目は扉に手をかけかけて、結局引き返した。今夜は、違う。


夫の聡の顔が、頭の中で反復再生される。

三年前、寝室で見つけた着信履歴。若い女の名前。言い訳と涙と、「もう二度としない」という誓いに、美咲は表向き頷いた。許したことにした。家庭を壊したくなかったからだ。けれど一度も、本当には許していなかった。愛情は静かに死に、代わりに「均衡」という名の冷たい欲求だけが残った。


『自分も、同じことをしてやる』


その思いだけを胸に、美咲はガラス扉を押した。


---


店内は予想通り静かだった。


薄い照明と、低いジャズ。カウンターの向こうで、佐伯がグラスを磨いている。目が合った瞬間、彼は穏やかに微笑んだ。


「白石美咲さん。お待ちしていました」


「……名前を知っているんですね」


「紹介者から伺っています。ここでは、本当の理由だけを預けていただければ結構です」


美咲は奥の席に腰を下ろした。コートを脱いでも、身体の芯はまだ冷たい。佐伯が水を置いた後、静かに言った。


「今夜は『桐生』さんが相手です」


しばらくして、男が現れた。


三十代半ば。細い目に、薄い笑み。黒のシャツの袖を畳んでいて、手首の骨が浮いている。左手の薬指に、指輪の跡がうっすらと残っていた。桐生蓮——後から知る名前だった。


彼は美咲の正面に座ると、余計な挨拶もせずに言った。


「あなたも、誰かに何かを返したくて来た口ですか」


美咲は一瞬、息を止めた。見透かされた気がした。


「……返したいものがある、というだけです」


桐生は小さく笑った。その笑みは優しくて、どこか残酷だった。


「いいですね。俺も似たようなものです。壊したいものが、ある」


二人の間に、短い沈黙が落ちた。

雨音だけが、窓を伝って聞こえる。


佐伯が黒い鍵をテーブルに置いた。


「三号室です。強制はしません。ただ、一度踏み込めば、簡単には足を洗えなくなるかもしれませんよ」


美咲は鍵を見た。

復讐のための鍵。均衡を取るための鍵。

それでも、指先が熱を持っていることに、彼女は少しだけ苛立った。


桐生が鍵を取り、美咲を見た。


「行きますか」


美咲は数秒だけ迷い、それから静かに頷いた。


「行きます」


二人は席を立った。

階段を上がる足音が、雨音に溶けていく。


美咲は自分に言い聞かせた。

これは愛情ではない。ただの、借りを返す行為だ、と。


けれど扉が閉まる音がしたとき、彼女の心臓は、復讐とは別のリズムで鳴り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。