第九話 問い
剛が口を開いたのは、夕食の後だった。
テーブルの上には、ほとんど手をつけていない料理が残っている。由依が片付けようとしたとき、剛が静かに言った。
「座って。少し、話がある」
声に怒りはなかった。むしろ、静かすぎて怖かった。由依は椅子に座り直す。心臓が喉のあたりで脈打っている。
剛は正面から由依を見た。
「金曜の午後、君はどこにいた?」
由依の指先が冷たくなる。
「……カフェで、原稿の整理を」
「渋谷のシティホテルの領収書が出てきた。日付が一致してる」
沈黙が落ちた。
剛の目は優しくない。優しくあろうとして、すでに限界を超えている目だった。
由依は唇を噛んだ。否定の言葉が頭を巡るが、どれも薄っぺらく感じられる。最終的に、彼女は視線を落とした。
「……仕事の打ち合わせよ。相手がホテルのラウンジを指定してきただけ」
剛は長く息を吐いた。信じている顔ではなかった。
「そうか。なら、いい。でも、由依。嘘をつくなら、もっと上手くついてくれ。俺は、君を疑いたくないんだ」
その言葉が、一番痛かった。
剛はそれ以上何も聞かず、部屋を出ていった。ドアが閉まる音が、ひどく大きく響いた。
由依は一人、テーブルに突っ伏した。涙は出なかった。ただ、胸の奥が真っ白に凍っていくようだった。
---
その夜、由依は黒木に電話をかけた。声が震えている。
「剛に、聞かれた。ホテルのこと……」
黒木の息が、受話器の向こうで止まるのがわかった。
「今から会えるか?」
「……ええ」
ホテルではなく、店。佐伯は何も聞かず、三号室の鍵を渡した。その目が、すべてを知っているように見えた。
部屋に入るなり、由依は黒木に抱きついた。キスは激しく、ほとんど泣きつくようだった。服を脱がせる手も乱れ、肌が触れ合った瞬間に由依は小さく呜咽を漏らした。
「怖い……なのに、あなたに触れないと、自分が保てない」
黒木は由依を強く抱きしめたまま、ベッドに倒した。言葉少なに、しかし深く身体を重ねる。進入した瞬間、由依は声を上げた。快楽がすぐに押し寄せ、思考を塗りつぶす。黒木は由依の涙を唇で拭いながら、腰を打ちつけた。
「俺も、お前を失いたくない。だから、もっと俺に頼れ」
由依は黒木の背中に爪を立て、何度も達した。快楽の頂点で、彼女は思った。
このまま壊れてしまいたい、と。
黒木もまた、由依の中で深く果てながら、彼女の名前を繰り返した。
事後、二人は汗と涙で濡れたシーツの上で抱き合っていた。
黒木がぽつりと言った。
「このままじゃ、ダメだな。俺たち」
由依は黒木の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「わかってる。でも……今は、離れたくない」
二人は次の約束を、曖昧なまま交わした。
別れを意識しながら、次を決めてしまう。その矛盾が、すでに二人を縛り始めていた。
---
家に帰ると、剛はすでに眠ったふりをしていた。
由依は隣に横になり、天井を見つめた。
剛の問いが、まだ耳に残っている。
そして黒木の体温も、まだ身体に残っている。
どちらも、手放せない。
どちらも、すでに壊れかけている。




