第八話 証拠の匂い
剛は、静かに動いていた。
由依が仕事で外出している昼間、彼は妻のカバンの中を丁寧に確認した。レシートの端に、見慣れないホテル名の印字が残っている。スマホの履歴はロックされていたが、充電ケーブルの近くに落ちていた小さな領収書が、決定的だった。渋谷のシティホテル。日付は、由依が「編集部の打ち合わせ」と言っていた金曜日と一致している。
剛はそれを写真に撮り、静かに元の場所に戻した。怒りより先に、冷たい静けさが胸を満たした。優しい夫でい続けようとしてきた自分が、急速に剥がれていくのを感じていた。
---
その夜、由依は黒木からのメッセージに即座に応じた。
『会いたい。剛の様子が、前よりおかしい』
店ではなく、前回と同じホテル。部屋に入るなり、由依は黒木にすがりついた。キスは乱暴で、ほとんど噛みつくようだった。服を脱がせる手も急ぎ、肌が触れ合った瞬間に由依は小さく泣きそうな声を上げた。
「バレそう……なのに、あなたに触れていないと、自分が壊れる」
黒木は由依を強く抱き、ベッドに押し倒した。いつもより言葉少なく、身体で応える。唇が胸を、腹を、秘部を這い、由依はすぐに腰を浮かした。進入は深く、激しかった。由依は枕に顔を埋め、抑えきれない喘ぎを漏らす。黒木は由依の手首を抑え、腰を打ちつけながら耳元で囁いた。
「俺も同じだ。お前を失うのが、怖くて仕方ない」
二人は何度も達した。快楽の波が引いた後も、互いに離れようとせず、汗ばんだ身体を重ねたまま抱き合っていた。由依の頰に、いつの間にか涙が伝っていた。
「このまま、どうなるの……私たち」
黒木は答えられなかった。ただ、由依の髪を優しく撫で続けた。
---
由依が帰宅したのは、午前零時を過ぎていた。
剛がリビングの明かりをつけたまま、ソファに座っていた。テーブルの上には、何も置かれていない。なのに、空気がひどく重かった。
「おかえり」
「……ただいま」
剛は由依の顔をじっと見た。視線が、首筋の薄い赤い痕に一瞬止まる。由依は無意識に髪で隠した。
剛が静かに口を開いた。
「最近の君の嘘、全部とは言わない。でも……いくつかは、気づいてる」
由依の心臓が大きく跳ねた。言葉が出ない。剛はそれ以上追及せず、ただ小さく息を吐いた。
「今夜は、何も聞かない。でも、いつまでもこのままじゃいられないよ」
その言葉が、優しくて、残酷だった。
夜中、由依はトイレに閉じこもり、黒木に短いメッセージを送った。
『剛が、気づき始めてる。怖い』
すぐに返信が来た。
『俺も考える。とりあえず、次は慎重に』
画面の光だけが、暗い洗面所を照らしていた。
小さな証拠は、すでに剛の手の中にあった。




