第五話 小さな亀裂
由依が家に帰ったのは、午前一時を過ぎていた。
マンションの玄関で靴を揃える音が、やけに大きく聞こえる。リビングの電気がついていた。剛がソファに座り、タブレットを見ている。珍しく早く帰宅していた。
「おかえり。遅かったな」
声は優しかった。いつもの剛の声。なのに由依は、胸の奥が小さく縮むのを感じた。
「編集部でトラブルがあって……ごめん」
「そうか。疲れただろ。風呂入って早めに休めよ」
剛はそれ以上何も聞かなかった。由依は安堵と同時に、奇妙な寂しさを覚えた。疑われないことが、かえって自分の罪を浮かび上がらせる。
シャワーを浴びながら、由依は鏡に映る自分の身体を見た。黒木に噛まれた痕が、鎖骨の下に薄く残っている。急いでタオルで隠した。湯気の中で、昨夜の黒木の声が蘇る。名前を呼ばれ、深く埋められた感覚。身体が熱を持ち、由依は自分の頰を叩くように顔を上げた。
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翌日、由依は仕事の合間に黒木とメッセージを交わした。
『昨夜、夫が起きていた。少しだけ、怖かった』
『俺もだ。妻が最近、俺の帰りを待つようになった。何か感じてるのかもしれない』
『それでも……また会いたい』
『俺もだ。今夜は無理か?』
由依は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。剛の穏やかな顔と、黒木の熱い視線が交互に浮かぶ。最終的に、彼女は短く返信した。
『金曜なら』
送信した後、自分の指が震えているのに気づいた。
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金曜日の夜。
由依は再び『Café Liminal』の扉を押した。黒木はすでに三号室で待っていた。会った瞬間、言葉はほとんどなかった。二人は抱き合い、激しくキスを交わした。服を脱ぐ手つきは前回より慣れていて、どこか必死だった。
黒木は由依をベッドに押し倒すと、丁寧に、しかし貪欲に身体を愛撫した。由依もまた、自ら脚を開き、男を受け入れた。結合した瞬間、由依は小さく喘いだ。快楽がすぐに押し寄せ、思考が溶ける。黒木は由依の耳元で何度も名前を呼び、腰を深く打ちつけた。
「由依……俺以外で、こんな声を出すな」
その言葉が、支配的でありながら、どこか脆く聞こえた。由依は答えられず、ただ男の背中に爪を立てて達した。黒木もすぐに続き、二人は汗だくで絡まったまま崩れ落ちた。
事後、黒木が由依の髪を撫でながら言った。
「これ、止められなくなってる」
由依は天井を見つめたまま、小さく頷いた。
「ええ。わかってる。怖いのに……止まらない」
二人はしばらく、互いの体温だけを頼りに沈黙した。
この関係が、いつか必ず壊れることを、どちらも薄々わかっていた。それでも、今夜はこの腕の中にいたいと願ってしまう。
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一方、由依の家では——
剛が一人、リビングでスマホを操作していた。由依の帰宅時間が遅い日が増えている。香水の匂いも、少し変わった気がする。剛は優しい男だった。疑うことを嫌う性格だった。けれどその夜、彼は初めて、妻のカバンの中を無意識に視線で追った。
小さな亀裂は、すでに入っていた。




